「千木良先輩、ありがとうございました。これでまた頑張れます」
「アホか。それが無様に倒れとった奴の台詞か」
「倒れていたからこそです。これから体を鍛えます」
「……アホやアホや思とったが、ホンマにアホやな。まだ主の力が安定してないんや。体鍛えたくらいで万事が解決する訳ないやろ」

 盛大に溜め息を吐かれてしまった。しかし風羽は他に妙案が思い付かない。倒れてしまったということは、主の力云々以前に自分の体力不足が原因ではないのだろうか。

「とりあえずしばらく浄化は休み。そのまんまやったらお前いつか突然ぽっくり逝ってまうで。じいさんに向けた手紙でも書けや」
「そうですね。まずはお返事を書かなくては」
「夏野菜は後で明杜がぎょうさん運んでくる予定やから、シマセンセにでも頼んで料理してもらい」
「何から何までありがとうございます。恩に着ます」

 風羽は深々と頭を下げる。千木良は少し変わった人(正体を知った今となっては妖怪、と表現すべきかもしれない)だったが、実際は面倒見も良く、良い先輩だったと思う。今も、断りづらいとは言ったが祖父の手紙を風羽に届けてくれた。

「そうや。実は後一つ頼まれとったことがあってな」
「はい、何でしょう」
「今、嫁を探しとるんや」
「? どなたのですか?」
「そりゃお前、この話題の振り方で俺以外な訳あるかい」
「それもそうですね」
「俺もそろそろ身を固めろと、上からのお達しでな。縦社会はホンマ恐ろしいで」
「プライベートまで口出しされるとは、烏社会も大変なのですね」
「正確には烏天狗社会や。そしてお前のじいさんにこう言われたんや」
「ほう」
「うちの孫娘はどうや、と」

 風羽は手紙を持ったまま、千木良を見つめた。千木良の表情はいつも通りで、とても「嫁」だの「身を固める」だのといった話題を口にしているようには見えない。

「まだ主になりたてで力の安定しない新米主に、その土地の監視者の烏天狗。合理的やろ。俺程の烏天狗になると、自分に並び立つだけの力を持った女妖怪にはなかなか会えん。お前は新米ながらも浄化体質で、この土地全てを浄化するだけの力がある。まだコントロールできんだけでな」
「……お待ちください」
「何や」
「まず、種族の問題はよろしいのですか」
「同じ妖怪やろ」
「いえ、先輩の属する烏天狗とは大分違うような」
「遠回しな言い方すれば、「鍵」と「鍵穴」の問題や。子供が作れれば問題ないわ」
「次に、私はまだ十五歳ですし、法律上結婚できません」
「人間社会の法律が妖怪に通用するはずないやろ、アホ」
「では最後に」

 風羽は手紙を抱き締めたまま、千木良の瞳を真っ直ぐに見つめる。

(きっと祖父は、私の為を思って言ったのだろうが)

 月宿の主として生きるために、傍に伴侶がいれば確かに負担は軽減されるかもしれない。先ほど倒れていた体に何かの術をかけて楽にしてくれたのは他ならぬ千木良だ。戸神の師匠であるということだし、烏天狗としての地位もそれなりにあるのだろう。

 だが、風羽はそれに答えることができない。外面的に何も問題はなくとも、こころは違った。風羽の中にはたった一人、想う殿方がいる。それに目を瞑ることは出来なかった。

「私は、広瀬くんが好きです。ですから、別の殿方と結婚するわけにはいきません」
「知っとるわ。それがどうした」
「結婚には相互の意志が必要かと思われます。私が広瀬くんを好きでいる以上、千木良先輩の嫁にはなれません」
「……なら、言わせてもらおうか」

 ぐっと風羽の腕を掴み、境内の階段へ押し付ける。予想以上の力に風羽は眉を寄せた。

「お前と広瀬にはもう何の繋がりもない。お前の中に広瀬の記憶があろうと、広瀬の中にお前はおらん。お前らにはもう時間が無いんや。お前がどんだけ広瀬を好いとっても、広瀬とは結ばれん。永遠にな」

 ぐいと顎を持ち上げられる。千木良は無表情だった。

「俺とお前は違う。俺らは人とは違う時間を生きる。俺とお前の間には永と呼ぶに相応しい時間がある。お前は確実に、俺に堕ちるで」
「堕ちません。私は」
「一途なんはええけど、度が過ぎるとただの厄介やな。……まあええわ。簡単に落ちてもおもろないし、横取りっちゅーシチュエーションもまあ燃えるわ」

 舌なめずりをする千木良にぞっとして、風羽は何だか獲物になってしまったように感じた。

「女性に興味がないとお聞きしておりましたが」
「まあな。でもお前の顔は好みやし、ややメリハリは足らんけどそれは俺が育てれば済む。結婚してもええくらいには好きになるやろ」
「随分いい加減です」
「これが俺の個性や」

 顔が近付いてきて、風羽は顔を背けようとする。しかし強い力で押さえつけられ、身動きが取れなかった。

「やめてくださ」
「……主様から離れろ! この縮れ毛!!」

 赤い閃光が千木良めがけて飛んで来て、風羽はあまりの眩しさに思わず目を閉じる。千木良はすぐに黒い羽根を広げて宙を舞い、奇襲を避けた。風羽は千木良に押さえつけられていた腕を無意識にさする。一陽は風羽を庇うようにして立つと、滞空している千木良を睨みつけた。

「お前か水城。ええとこ邪魔すんなや」
「死ね千木良! 僕が入れないよう結界まで張って、用意周到な!」
「当たり前や。お前が出てきたらぎゃんぎゃんうるそうて、話にならんわ」
「失せろ!!」
「しゃあない。今日は退散するわ。……おい、菅野」

 バサ、と黒い翼が広がって、風羽の頬に影がかかった。不敵な笑顔が風羽に向けられる。背筋がぞっとしてしまいそうな程、男の気配を漂わせた妖艶な笑顔だった。

「俺とお前の間には、飽く程長い時間がある。……ゆっくり口説かせてもらうわ。覚悟しとき」

 黒い翼が羽ばたいて、遠くの空へ消えていく。風羽は千木良に掴まれて痺れた腕をさすりながら、呆然とその姿を見送った。