※「この絶望を幸せと呼べる日が来るまで」と「どうか幸せに」の間の話




 風羽が月宿の主になり、数日がたった。土地を浄化する者が正式に現れたこともあり、月宿は元の美しさを取り戻しつつある。

「菅野さん、今日はこの辺りにしておきましょうか」
「小田島先生。しかし」
「連日浄化を繰り返していたら疲れたでしょう? 冷たい麦茶を用意しますから、少しだけ待っていてくれませんか」
「……分かりました」

 神社の奥に歩いていく小田島を見送って、風羽は境内に腰掛けた。途端にふらりと来た目眩に耐えられずに、後ろに倒れる。

(体の丈夫さが自慢だったのだが)

 浄化活動は想像以上に体力を消費するらしい。まだ主の力に慣れていないからだと一陽は言っていたが、それに甘えているわけにはいかない。

(小田島先生が来る前に起き上がらなければ)

 うまく動かない体を叱咤しても、言うことを聞かない。もしや貧血とはこういう状態を言うのだろうか。今まで一度も貧血を経験したことがないので、判然としない。

「……なんや、死にかけとるで」

 聞き覚えのある声がして、風羽は揺らぐ視界の中に黒い何かが横切るのを見た。バサ、バサ、と二度の大きな羽ばたきと共にそれは風羽のすぐそばに舞い降りる。

「全く、ここのカエル共は何しとんねん。主のこいつボロクソにしよって。こいつが死んだら俺らも面倒なことになるっちゅーのに」

 黒い羽根が太陽の光を遮り、風羽の視界に影を落とす。ぐったりと起き上がれない風羽の体を抱き起こすと、何事かを呟いて額に指先を当てた。その途端に急に体の倦怠感が抜けて、視界がはっきりしてくる。

「よう、久し振りやな」

 風羽を抱き起こしていたのは千木良だった。しかし頬の見慣れない紋様のようなものと、神官姿の小田島達に似た衣装、何よりもその背から生えた黒く大きな羽根は、風羽の知らない姿だ。

「千木良先輩、ですか?」
「それ以外の誰に見えるんや」
「いえ、服装やその羽根が常軌を逸していましたので」
「相変わらず素直に失礼やな。仲間内には一際美しいと評判なんやで」
「それは失礼しました」

 そうか、千木良先輩も妖怪だったのか。風羽はその人とは明らかに異なる姿を見て確信する。恐らく、小田島や一陽との会話に時折出て来る「烏」とは、彼や、彼らの仲間を差すのだろう。そう考えると、千木良の背から生えた羽根は成る程、烏のものに似ている。

「つうか、驚かんのか」
「いえ、たいへんびっくりしております」
「そうは見えへんで。……まあええわ。そんな話をしに来たんと違う」
「何かお話が?」

 千木良は風羽の意識がはっきりしたのを確認して、抱きかかえていた腕を離した。確かに、会話をするには至近距離過ぎたようだ。

「これや」

 懐から一枚の手紙を差し出される。飾り気のない白い便箋には見覚えがあった。風羽は慌ててそれを受け取り、差出人を確認する。もうすっかり遠くなってしまった人の名前がそこにはあった。

「お祖父さん……」

 千木良がいるにも関わらず、風羽は封筒を破いて開けた。いつもはハサミで丁寧に開封するのだが、今はハサミを探す手間が惜しい。

 中の便箋には癖があるものの達筆な祖父の字が並んでおり、風羽は目を見開いた。本当に、祖父からのものだった。中には、自分は息災であること、畑に夏野菜が実ったので届けさせるということ、それから風羽の体調の如何と、主としての務めをしっかりと果たすようにとの激励の言葉に、また手紙を寄越しなさいとの追伸が、祖父らしく簡潔に綴られていた。

「どうして……」
「確かなことは知らん。ただお前、あのニャンコちゃんの力で、お前の記憶を人間達から抜いたんやろ?」
「そうお聞きしております」
「多分、架牡蠣の山奥までは届かんかったんやろ。あのニャンコちゃんのことやから意図的に外したのかもしれんけどな。後はあのじいさん、架牡蠣の山護を長年務めとるから、もう人間よりこっちに寄っとる可能性がある。だから記憶は消されず、お前の手紙が届いたし、返信を書いたんやろ」
「そう、ですか……」

 妖怪となったことで、もう全ての繋がりは絶えてしまったと思っていた。しかしたった一人の肉親との大切な縁が途切れていないことを知り、胸の奥が熱くなる。

「おかげで事情を知っとるこっちはパシり扱いや。あのじいさん、烏使い荒いで……」
「千木良先輩は祖父とお知り合いなのですか?」
「お知り合いっちゅーか、架牡蠣の山は俺らの住処やからな。お前の一族には何かと借りがあるから、頼まれたら容易には逆らえんわ」
「それは初めて知りました」
「そういやあのじいさん、よう言っとったで。孫娘には家業のことは知らせん。あいつには普通の人生を歩ませたいて」
「……」
「ま、お前はそうとは知らず、妖怪になった訳やけどな」
「……しかし、過ぎたことは悔いるなというのも、祖父の教えです」

 便箋を丁寧に封筒に仕舞い、風羽はそれをじっと見つめた。厳しく、愛情深い祖父だった。父も母もいない風羽にはたった一人の大切な家族だ。

「私は祖父のことが大好きです。主になったことについて、悔いることはありません。私は私の務めを果たします」
「そりゃご立派やな」

 俺には理解できん、と千木良は肩を竦めた。