「大丈夫ですか?」 その声にはっとして、広瀬は目を覚ます。女の子は心配そうにこちらを見つめていた。彼女は白い清潔なハンカチでこちらの汗を拭い、心配しました、と言葉を零した。 どうやら道端で倒れてしまったようだった。広瀬は自分の頭の下に女の子の太ももがあることに気付き慌てて飛び起きようとしたけれど、体につきまとう気だるさと頭痛でそれはできなかった。彼女は道で倒れた広瀬を木陰まで連れてきて、膝枕までして休ませてくれていたらしい。少し情けなかった。 「ごめん、俺、倒れたみたいで」 「いえ、構いません。もう平気ですか?」 「うん。ちょっと待って、今起きるから」 「無理はいけません。まだ差し込みは時々あるのですか?」 「……いや、もう殆ど無いよ」 広瀬は意地悪く、何故差し込みのことを知っているのかと聞きたくなったけれど、止めた。それよりもずっと大切なことがあった。広瀬はゆっくりと起き上がって、彼女を真っ直ぐ見つめる。広瀬は高校二年になってから少しだけ背が伸びたし、肩幅も広くなった。「少し背が伸びましたね」という彼女の台詞に何も間違いはない。 広瀬の真剣な目に、彼女は首を傾げた。どうしたのですか、と問いかけてくる彼女を見ながら、広瀬はこの五年間のことを考えていた。 (見つかるはずがない) 広瀬は長い間、受験のときに鉛筆をくれた女の子を探していた。ほんの一時の、きっと彼女には取るに足らない程度の思い出が、広瀬を月宿高校に招いたのだ。長い階段を上りながら、雨の廊下を渡りながら、一人の教室で、朝の集会で、夕暮れ時の部室で、時折校庭を見渡しながら、広瀬はいつも、たった一人の女の子を探していた。 そして今、その女の子は目の前にいる。広瀬は、本当は入学してすぐにその女の子を見つけていたのだ。探していたのは彼女がいなくなってしまったから。広瀬が本当に探していたのは、彼女と、あの一ヶ月の間の自分自身だったのだ。 「会いに来るのが遅いよ……」 彼女が会いに来なければ、広瀬は彼女を思い出せない。だから広瀬は待っていた。彼女を、いないはずの場所で探すことで。記憶は無くても、心が彼女を覚えていた。だから十九波の力であっても広瀬の中から完全に彼女の記憶を封じることができなかったのだ。 「菅野さん」 彼女が目を見開いた。広瀬はすがるように彼女の手を取り、強く握る。そのまま額に押し当てればひら、と広瀬の目の前で白いハンカチが揺れた。 「菅野さん。すがの、菅野風羽さん。菅野さん、風羽さん。菅野風羽さん」 何度も何度も、繰り返して彼女の名前を呼ぶ。もう忘れてしまわないように。広瀬の大切な女の子が、どこかへ行ってしまわないように。 「やっと、見つけた」 顔を上げれば、風羽は泣いていた。大きな瞳から大粒の涙が重力に任せて落ちていく。何度かくちびるが動いて、どうして、とか、きおくは、とか言い出そうにしているのが分かったけれど、広瀬はそれには答えないで、彼女の手からハンカチを取るとそれを彼女の頬に優しく押し当てた。 「俺しかいないけど、良いかな」 もうあの寮で彼女と過ごした日々を、他の寮生は覚えていない。葉村も、空閑も、法月も、米原も、風羽のことを知らないし、思い出せない。 「君を覚えてるの、俺しかいないけど、それでも」 広瀬は目頭が熱くなっていくのを感じた。別れ際にもけして泣かなかった風羽が、こうしてぼろぼろと子供のように泣くのを見ているからだろうか。何も言えずにしゃくりあげる彼女に、広瀬は泣きそうになりながらも笑いかける。 「ずっと、君を、探してた……」 風羽は腕を伸ばして、広瀬に抱きついた。肩に回された細い腕は震えていた。広瀬はその震えを受け入れて、宥めてあげたくて強く抱きしめ返した。最後の日と比べて、広瀬には風羽がいっそうちいさくなってしまったように感じた。広瀬は人間として成長して、彼女は妖怪として停滞していたからだ。それが二人の五年間の差だった。 「あ、なた、が」 ひく、としゃくりあげながら風羽は広瀬にしがみついた。 「あなたがいればいい。ほんとうは、あなたがいれば、もう、それで」 「うん」 「私は、わがままです」 「良いよ。いっぱいわがまま言ってよ。……長い間、忘れていてごめんね」 広瀬は隙間を埋めるように彼女を抱き締めた。離れていた間の彼女の寂しさを、少しでも埋めてあげたかった。 「もう忘れないよ。俺は、君のことが本当に好きなんだ」 長い階段を上りながら、雨の廊下を渡りながら、一人の教室で、朝の集会で、夕暮れ時の部室で、時折校庭を見渡しながら。そうやって探していたたった一人の女の子を、広瀬は腕の中に閉じ込める。 「君は?」 「私もです」 そう言ってうつくしく笑う女の子の名前を、広瀬はもう忘れることはできない。 「私はいつだって、あなたに恋をしているのです」 彼女の名前は菅野風羽。その名を呼べることが、広瀬にとって一番の幸いだ。 |