試験を終えて立ち上がり、腕時計で時間を確認する。約束した時間まであと一時間ほどだった。月宿まではバスで三十分だから、まだまだ余裕がある。着いたら久しぶりに寮の周りでも歩いてみようかと思う。

 今日は月蛙寮の元寮生達との同窓会だ。話によると寮監をしていた米原も来るそうだ。あの寮で暮らしていた期間はひと月にも満たないが、貴重な縁だったと思う。現にこうして、高校を卒業してもう二年になるというのに集まる機会がある。今日は全員が二十歳になって初めての集まりということで、米原にお酒を奢ってもらうのだと法月は言っていた。

 バスに乗り込み、窓の外を眺める。段々と見慣れたものに変わっていく景色を見ながら、広瀬は高校時代の思い出を辿る。そうだ、水道管が破裂して月蛙寮に入ったとき、空閑の嘆願に負けてエコ部活動することになったのだ。葉村とは最初そりが会わずに対立してばかりだったが、互いの人となりが分かってからはそれも減っていった。

(……あれ?)

 何かが足りない気がした。

(……高一の頃の思い出だし、忘れているのかもしれない)

 月宿高校前の停留所で降りると、部活帰りの学生達がちらほらと見当たった。制服は変わっていないようで、少し特殊なデザインのブレザーに、前で止めるボタンがついたセーラーだった。昔はあれを着てこの高校に通っていたのだ。懐かしく感じられ、思わず笑みが零れる。

「さて……月蛙寮にでも行ってみようかな」

 田んぼのあぜ道をくぐるようにして、広瀬は懐かしい寮への道を辿る。月蛙寮には一ヶ月未満の滞在だったのだが、学生寮よりも濃い生活を送ったような気がしている。おそらく、メンツがメンツだったからだろう。

 道を歩いていくと、懐かしい月蛙寮が見えてきた。

「変わってないなあ」

 古い建物は数年前と同じ姿で広瀬の前にあった。感慨深く見上げる。

「……おかえりなさい」
「……え?」

 声に導かれるように視線を下へ移すと、月蛙寮の玄関先にひとりの女の子がいた。短い髪に、一際整った愛らしい顔立ち、身を包むのは月宿高校のセーラー服だ。彼女は広瀬へ一歩、二歩と近づき、目の前で足を止めた。澄んだ目が広瀬を見つめ、うっすらと微笑む。

「少し、背が伸びましたね」
「は?」
「私も成長したのですよ。人の姿に化けられるようになりました」
「……えっと」
「お会いできて、嬉しいです」

 これが電波ってやつなのだろうか? 何を言っているのやらさっぱりだ。しかし彼女の態度から、どうやら広瀬のことを知っているらしいことは分かった。しかし今の月宿高校の生徒に知り合いなどいただろうか。皆目見当がつかない。せいぜい部活の一年生(今は二年生だが)くらいだが、彼女はそれとも違う。

「月宿高校の子だよね?」
「そうかもしれません」
「かもしれないって……。えーと、俺のこと、知ってるの?」
「はい。とても」

 彼女は広瀬の問いに少しだけ悲しそうな顔をした。眉を寄せ、それでも笑おうとするものだから、何だか泣き笑いのような表情になっている。広瀬もさすがに申し訳ない気分になってきた。思いだそうと必死に記憶を辿るのだが、記憶の中に目の前の女の子の姿はさっぱり見当たらない。

「……ごめんね。どうしても君のこと、思い出せないんだ。名前を聞いてもいいかな。そしたら思い出せるかも」

 彼女の態度は親しげだし、名前が思い出すきっかけになってくれるかもしれない。そう思っての提案だったのだが、女の子は首を横に振った。

「あなたは私を思い出せません」
「え? いや、もしかしたら思い出せるかもしれないから」
「いいえ、『もしかしたら』は、無いのです。ごめんなさい。私は、本当は会いに来るべきではなかった」
「待って、どういうこと?」

 広瀬の横をすり抜けようとする彼女の腕を咄嗟に掴む。細く白い腕だった。

「あなたが私を覚えているはずかないからです」

 だから、会っても甲斐がないのだと彼女は言う。

「突然すみませんでした。それでは、そろそろ失礼します。お元気で」

 にこ、と微笑む女の子に毒気を抜かれ、腕を掴んでいた手の力を弱める。彼女は猫のようなしなやかさで広瀬の横をすり抜けてから、こちらを振り向いた。

「さようなら、――広瀬くん」

 彼女が広瀬の名を呼ぶと、ずきんと頭の奥で激痛が走った。じりじりと胸の奥がくすぶって、誰かがわめき出す。

(これが最初で最後の機会)
(彼女から俺に委ねられた)

『分かりました』

 その声を広瀬は知っていた。

『未来のいつかの俺に、託します』

 それは広瀬自身の声だ。

(未来のいつかの俺? ……それは今の、俺?)

 広瀬の中に、見覚えのない景色が浮かび上がる。月蛙寮の台所、皿を洗う自分と、白い……あれは、猫だろうか。普通の猫とは違う。着物を着ていて、喋って、二足歩行するそれは、妖怪と呼ばれるいきものだ。

『聞こえてる?』

 まだ高校生だった広瀬が、今大学生になった広瀬を見つめていた。

『これは俺の記憶だよ。たった今、彼女がやってきた。……広瀬優希に会いに来た。それが鍵なんだ』

 高校生の自分はこんなに芝居がかった口調だっただろうか。広瀬はのろのろと手を伸ばした。高校生の頃の広瀬も、対応するように手を伸ばす。

『今から見せるから、思い出して』

 懇願するような声がして、広瀬の視界がぐるりと反転した。時間が戻り、景色が変わって、目の前にはまだ洗い終わっていない食器と白い泡が見えた。背後には白い猫又がいる。

「で、何か用ですか?」
「ああ、今時間はあるかい?」
「これを洗い終わったら暇ですよ」
「そうかい、じゃあ待っててやるからさっさと済ましな」

 どうせなら手伝ってくれればいいのに、と思いながら、広瀬はまた一枚、皿を洗う。

「――のことで話があるんだよ」

 それは確かに、広瀬自身の記憶だった。