部屋に一人でいると、気持ちが少しずつ沈んでいくのを感じた。会いに行くか、行くまいか。悩んでいると、ささやかで控えめなノックが広瀬の耳をくすぐった。

「……菅野さん?」

 そう呼んだものの、確信していたわけではなかった。ゆっくりと扉が開かれれば、予想通りの人物がそこに立っていた。昨日と立場が逆だなと広瀬は思った。

「少し、よろしいですか」

 彼女は寝巻きではなく、普段着だった。風呂に入ったのではなかったのだろうか。今日は法月が長風呂をしたせいで、最後の広瀬はまだ風呂に入れていない。時間はもうすぐ日付をまたごうとしていているというのに。

「いいよ、どうしたの?」
「祖父に手紙を出しに行きたいのです」
「ああ。じゃあ、ポストまで一緒に行こうか」

 以前は一人で行っていたらしいのだが、夜中に女の子一人は危ないと米原に言われて以来、彼女が夜に手紙を出しに行くときは必ず誰かが同行することになっていた。学校とは反対方向にあるため、通学途中に出していくことができないからだ。

 寮を出ると真っ暗だった。広瀬は持ってきた懐中電灯を灯して、足場を照らす。目的地の方向を確認してから、風羽に手を差し出した。

「……暗くて危ないから」

 風羽はややきょとんとしてから、おずおずと広瀬の手をとった。風羽の手は小さく、このままくるりと包んでしまえそうだった。暑いせいでしっとりと手が汗ばんだが、離したいとは思えなかった。

 ポストまではそれ程近くはなく、着く頃には互いにひとつふたつ、虫さされが出来ていた。虫除けスプレーを避けてまで血を吸うなんて剛毅ですと、風羽がやたら真剣な顔をして言うものだから、広瀬は思わず声を出して笑ってしまった。

 古びたポストに白い封筒が飲み込まれる。届くのは明後日になるだろう。風羽は手紙の回収時間を確かめてから、広瀬の方へ戻ってくる。

「回り道、しませんか」

 今度は風羽が手を差し出してきたので、広瀬は迷いなくその手をとった。離していたせいで手のひらは冷えていたので、強く握る。ふれた部分からじりじりと熱くなっていくのを感じた。

 回り道と言っても、広瀬はあまりこちらの道には詳しくない。必然的に風羽に手を引かれることになる。彼女はこちらのポストにはよく来るからか、随分と歩き慣れているようだった。足元を懐中電灯で照らしてやりながら、彼女のつむじと、肩と、細い腕をじっと見つめる。

(もう、時間がない)

 特に会話があるわけではなく、二人は手を繋いだまま歩いていく。広瀬は自分の腕時計に視線を落とした。もうすぐ日付が変わる時間だった。

「菅野さん」
「広瀬くん」

 風羽もタイミングを計っていたのだろうか、声が重なって、互いに目を丸くして見つめ合い、黙り込む。先に口を開いたのは風羽だった。

「言わなければいけないことがあって」
「……うん」
「十九波さんから、玉が抜かれるという話は聞きましたか?」
「法月先輩経由だけど、聞いたよ」
「それは今日なのです」

 俯いてそう言う風羽に、広瀬は安心させるように微笑んでやった。きっと風羽は、自分が責められると思っているのだ。どうして話してくれなかったのかと、広瀬から叱られるのを怖がっている。

「……うん。知ってた」
「! ご存知だったのですか」
「さっきお皿洗ってるときに十九波さんが来て、そう言ったよ」
「そうだったのですか」
「君がいつも通りでいてほしいって言ったから、知らんぷりしてた」
「……いつも通りではありませんでした」
「え?」
「手を繋いでいます」
「それは……。……うん、だって、繋ぎたかったんだから仕方ないじゃない」

 ぎゅっと手を握る。彼女が少し痛いと感じるくらいに、強く握った。もう失われてしまう体温を、少しでも長くつなぎ止めておきたかったからだった。

「お別れを言わなくてはいけません」

 それ以上は聞きたくなくて、彼女を腕の中に閉じ込めた。答えるように風羽も腕を広瀬の背に回す。十九波の前では必死に冷静なふりをしたけれど、もう、今この時になってまで平然としていられない。彼女の髪からは洗いたての爽やかなシャンプーの匂いがして、それがいっそう広瀬を苦しめた。

 受験の日に鉛筆を貰ってから、放送室で再会した日から、資料室で二人きりで会話してから、雨の日に教室でしりとりをした日から、夜の学校で屋上に上ってから、彼女を初めて抱き締めた日から、彼女に好きだと告げた日から、初めて彼女にキスをした昨日、そして、彼女を抱き締めている今まで。

 広瀬は、ずっと風羽のことが好きだった。淡く消えてしまいそうな、友達だと言い張れたような想いはかたちを変えて、手放したくない、ずっと抱き締めていたいと思うような明確な恋心になってしまった。広瀬は自分を淡白で執着心が薄いと思っていたから、こんなにも誰かを想えることを知らなかった。そしてその想いが今、広瀬と風羽の二人を苦しめている。

 妖怪が何だって言うんだ。君が好きなのに、どうして。どうして忘れなければならないんだ。君が好きだ。君のことが好きだ。どこにも行ってほしくない。どこにも行かないで。

 けれど聡い広瀬は、けして自分の本心を口にはしない。十九波にも言われてしまったのだ。「笑って送り出してやりな。あんたらは忘れても、風羽は忘れられないんだ。未練たらしいことを言ってあの子を苦しめるんじゃないよ」と。

 広瀬は風羽のことが好きだから、笑うことにした。微笑んでサヨウナラをして、お別れにすることにした。

 もう広瀬にできることはなかった。あとの全ては風羽に委ねられる。

「元気でね。それから」

 抱き締める力を緩めていく。同じように風羽も抱きついていた力を弱くしていって、けれど決定的に離れることはできなくて、抱き合ったまま、至近距離で見つめ合った。

「好きだった、君のこと」

 頬に手を添えたら、それが合図のように彼女は目を閉じた。

「君が好きだ。忘れてしまっても、俺は君が好きだよ。ずっと、想っている。ずっと」

 広瀬が屈んで、風羽が背伸びをした。それが最後の口付けだった。離れた瞬間、風羽が何かを言おうとしたのが見えたけれど、カチリと時計の針が動いて十二に重なり、広瀬がそれを聞くことは出来なかった。










「……あれ?」

 いつの間に外に出たのだろうか。広瀬は辺りを見渡して首を傾げる。自分は一体、何をしていたのだろう? もう辺りは真っ暗だった。懐中電灯を持っているということは、何かを探しに来たのだろうか。広瀬は何故自分がこんなところにいるのかさっぱり分からなかった。もしや寝ぼけていたのだろうか。しかしその割には虫除けスプレーやら懐中電灯やら、どうも準備が良すぎるように思う。

 とにかく、寮へ戻らないといけない。もう十二時をとうに過ぎているし、きっと広瀬の前に風呂に入っていた法月はとっくに上がって、広瀬を探しているだろう。

 おーい広瀬、と声が聞こえた。法月と空閑の声だった。唐突にいなくなったものだから、心配して外にまで探しに来たのかもしれない。あの寮の人々は心配性なのだ。

「すみません、俺はここです!」

 広瀬は右腕の虫さされを気にしながら、声のする方へ向かう。寮の明かりが見えてきて、広瀬の日常が戻ってくる。