手を動かせば、ぱしゃん、と湯が揺れる。汗が額にじりじりと浮かんでくるけれど、風羽は祖父の影響で熱い風呂が好きだった。

(あたたかい)

 自分自身からも湯気が出ていそうなくらいだ。風羽は湯を掬って、それをまた湯船に落とした。指先まで熱くなってくる。体を洗うために湯船から出ると、目の前の鏡にぼんやりと自分の姿が映る。曇ってしまった鏡を右手でこすると、今度ははっきりと自分の体が見えた。そして自分の右胸辺りに浮かんだ、不思議な紋様が薄く光る。

 一陽が言うには、これは月宿の主となった証らしい。体のどこに出るかは定まっていないそうだが、風羽はこの位置で良かったと思った。服で隠れるし、見ようと思わなければ見えない位置だ。

 人でないものになったという自覚が、風羽にはあまりなかった。きっとそれはこれから、風羽が人々の記憶から消えてしまってから、実感することになるだろう。

(まず、祖父に手紙を書かなければいけない。きっと記憶から消えてしまうだろうけれど、今まで育ててもらったお礼を言いたい)
(そうだ、お世話になった人達にお礼を言いたい)
(言わなければ)
(……言わなければいけないのに)

 風羽はそうやって、やりたいことを義務化していることに気付いた。やらなければいけないから、しなくてはいけないことだから。だから風羽にはまだ時間が必要なのだと。

 覚悟は決めたつもりだった。けれど、そうやって逃げようとしている自分がいるのも事実だった。

(時間が必要でも、もう……)

 風羽はシャワーを思い切り捻る。冷たい水が全身にかかると、ほてった体が一気に冷えた。そして感傷的になりそうだった気持ちを奮い立たせる。

「まずは、祖父に手紙を書いて」

(それから)

 それから。

(広瀬くんに)
(広瀬くんと)
(ひろせくん、)
(ひろせくんは)

「広瀬くん……」

(十九波さんは、言っていた。今日、皆さんの祓玉を抜く。同時に、私の存在が皆さんの中から消えると)

 風羽にはもう時間が無かった。