「葉村くん、雨女之月宿姫の話……覚えてる?」

 じりじりと音を立てる旧式のオーブン(いつ持ち込まれたものか分からないが、和式の台所には随分不似合いだった)を時たま開いて、空閑はケーキの焼き加減をチェックしていた。葉村は生地がこびり付いたボウルとヘラを洗剤で洗い流しながら、空閑の問いかけに答える。

「雨女之……って、あの掛け軸のやつか?」
「うん」
「確か日照りが続いたとき、雨を降らせたとか何とか」
「そう。それで、川が氾濫しちゃって、身を投げてそれを沈めたっていう話」
「人間の要望を聞いてやったってのに結局犠牲になるなんて、そいつも馬鹿だよな」
「……僕、ね。昨日の夜、それを考えてて。……菅野さん、みたいだなって」

 こびりついた生地はなかなか取れなくて、洗剤の泡が対抗するように増えていく。洗剤の使いすぎは環境に良くないと言われたから量を控えているのだが、これでは汚れは落ちないだろう。擦る腕に力を込める。

「全然違えよ」
「うん。違うんだけど……。菅野さんだって、ここの出身じゃないのに、主になったじゃない。土地が汚れたのだって菅野さんのせいじゃないのに」
「……」
「僕は、ずっと考えてたんだ。雨女之月宿姫みたいに、何かを守るために自分を犠牲にするって、どういうことなのかなって。そう思えるくらい大切なものが……自分には、あるのかなって」

 それは控えめながらもはっきりとした声だった。空閑はこの寮に来たばかりの頃はとにかく暗くて、人の顔色を疑ってばかりで、俯いていることが殆どだった。少しずつ彼は変わっていった。懸命に前を向き、ゆっくりでもきちんと自分の意志を口に出して、人の目を真っ直ぐ見るようになった。

「菅野さんには、自分が妖怪になってまで守りたいものが、あったのかな。それはいったい、どういう気持ちなんだろう……?」

 葉村は、自分が空閑ほど思いやりのある人間でないことを知っている。大体自分のことを優先させるし、意志を曲げてまで優しさを大事にしたいとは思わない。同じように嘘を吐くのが苦手だ。それは自分を隠すことだからだ。

「……俺は菅野じゃねえから分かんないけど、あいつのことだから、責任感とか、そういうのかもな」

 けれど葉村はこのとき、嘘を吐いた。いや、嘘ではなく、考えることを放棄したのだ。彼女が一体何故妖怪になったのか。その理由に気付いてしまうのが怖かったから。

 多分責任感や義務感なんてのも、嘘ではないだろう。けれどそれは核心ではない。そして風羽はきっと、それを自分達に告げることはないのだ。告げるとしたら、たったひとり。葉村が大嫌いな優等生だけだろう。

「あ、焼けたよ。葉村くん」

 オーブンが開けられて、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。葉村が甘いものは苦手だから砂糖を少なめにしたと空閑は言ったけれど、それでもその香りは甘くて、葉村は逃げるように顔を逸らした。