帰宅すると台所からガラガラガシャンとけたたましい音が聞こえて、葉村は目を丸くした。何の音かと疑問に思い、自室には戻らず、制服のまま台所へ向かう。

「空閑? お前、何してんの」
「あ、は、葉村くん……」

 ボウルに、ヘラに、円形の型、泡立て器と、それから空閑が、台所の床に転がっていた。慌ててそれらを拾い始める空閑を見て、葉村も目の前に落ちていたゴムベラを拾う。「拾ってくれてありがとう、葉村くん」と空閑がやけに嬉しそうに笑うので、そのまま手渡してやる。

「今日はお前が夕飯を作るのか?」
「ああ、ううん。そうじゃなくて……。ケーキ、作ろうと思って」
「はあ? ケーキ? 何でまた、そんな甘ったるいもんを」

 元来甘い物が苦手な葉村は、空閑の「ケーキ」という単語に対してあからさまに難色を示す。空閑は顔を青くして、ごめんね葉村くんは苦手だったねとどもりながら謝り出した。そこで葉村は自分の態度があまりにも剣呑であったことに気付き、頭を掻く。

「いや、俺は別に構わねえし……。それより、何でケーキなんだ? 誰かの誕生日とかか?」
「あ、あの、えっと……。菅野さんと、この間、手作りのケーキの話を、したんだ。それで、作って、みんなで食べたいねって。だから」
「ふうん」

 材料と思しきものは被害を受けていないようで、テーブルの上には小麦粉や卵などがきちんと用意してあった。

「いつ、菅野さんがいなくなっちゃうか、分からないから……。だから、作っておきたくて」

 空閑はゴムベラを見つめ、寂しそうに笑う。空閑はもう、風羽との別れを受け入れたのだろうか。恐らく別れが来る前に自分の出来る限りのことをしようと考えた結果が、ケーキ作りだったのだろう。未練が残らないように、と言ってしまうと、まるで風羽が死人になってしまったように感じた。

 葉村は空閑と違い、風羽に関してまだ気持ちの折り合いを付けることができないでいた。寮で暮らすようになって当たり前のように近くにいた奴が、記憶からすっかりいなくなってしまうと言う。そんなのってあるか、と思いながらも叫ばないでいられたのは、風羽に関することで葉村以上に動揺していた人物がいたからだ。

 広瀬はどうしているだろうか。あの優等生は、風羽と一緒にいるだろうか。

「空閑、お前、エプロンは?」
「……あ! 持ってないや……」
「待ってろ、先生から借りてきてやるから」
「え、いいの?」
「ああ。……だから、その、な。空閑」
「え、うん、何?」
「俺も手伝って、いいか」

 葉村は甘いものが大嫌いだ。けれどこの時はどうしても手伝いがしたかった。何故こんなことを言い出したのか、と後から考えて、葉村はただ自分が風羽のためにできることを探していて、見つからなかったから空閑に便乗してまで何かをしたかったのだと気付いた。