翌朝、彼女は制服に身を包み、まるで何事も無かったかのように、米原を手伝って朝食の準備をしていた。いつも通りに接してほしい、というのが風羽の願いだった。だから法月はにっこり笑って、「おはよう、スガちゃん」と言ったのだ。風羽が嬉しそうにしてくれたから、法月はそれだけで幸せだった。

 皆でぎこちないながらも「いつも通り」でいた。月宿の地は浄化され、もう法月達はお役御免だ。いつ祓玉を抜かれるか分からない。そして、それは同時に風羽とのお別れを意味していた。

 そう考えると授業にはとても集中できなくて、結局逃げるように猫達の隠れ場に来てしまった。ごろごろと鳴く猫のあごをくすぐり、擦りよる子は抱きかかえてやる。法月の寂しさを知っているのだろうか、慰めるように頬をぺろりと舐められて、つい微笑んでしまう。

「おやおや、学生の本分は学業だろうに」
「ネコさん」
「何たそがれてんだい。レン」
「えへへー。ちょっと疲れちゃったから、休憩!」
「全く」

 十九波が近寄ると、法月のそばにいた猫達は次々に法月から離れ、茂みの中へ姿を消す。しかしその足取りはしなやかで、逃げると言うよりは場所を譲ったという雰囲気だ。

「おや、殊勝な子達だね。アタシのことが分かるなんて」
「あの子達、ネコさんが化け猫だって分かったから、向こうに行ったの?」
「そうみたいだね。礼儀を知ってる奴らは嫌いじゃないよ」

 十九波が法月の隣に腰掛ける。ゆらゆらと三本の尻尾が揺れた。

「俺ひとりのところに会いに来るなんて、珍しいね」
「あのメンバーの中で、風羽の次に真面目に話を聞きそうなのがあんただったからね」
「何かお話なの?」
「祓玉のことさ」

 まるで法月の思考を知っていたかのような一言に、法月は目を丸くする。

「記憶の混乱を防ぐために、風羽が月宿の池に向かうその日に抜くことにするよ。願い事を考えておきな。みんなに伝えておいとくれ」
「……抜きたくない、って言ったら?」
「それを決めるのはアンタ達じゃない。アタシだ。何があっても玉は抜く。それは変わらないよ」
「俺、スガちゃんのこと、忘れたくないよ」

 法月は風羽のことが好きだった。一目惚れと言ってしまえば軽薄だと思われてしまうかもしれない。けれど、あのたった一時を法月は忘れられない。周りのすべてが希薄になり、彼女以外のものが見えなくなった。初めての一目惚れだったのだ。

「忘れたくないよ……」

 放送部に入ってくれて、話をするようになって、同じ寮で暮らすようになって、法月は益々風羽に恋をしていった。その彼女がいなくなってしまうと言う。ただの不在ではない。彼女の存在そのものが法月の中から、そして世界から無くなってしまうのだ。

「人間と妖怪は根本的に相容れないんだよ。そして妖怪になった風羽は早いところ妖怪の世界に適合しなきゃいけない。アンタ達がその枷になってどうするんだい。気持ちよく送り出してやりな」
「でも、スガちゃんはそれで良いのかな。みんなから忘れられて」
「さあね。アタシはあの子じゃない。何を考えているかなんてさっぱりさ」
「ネコさん、冷たい」
「本当のことを言ったまでさ。いい加減な推測で慰めて欲しいんなら他を当たりな」

 十九波が話は終わったとばかりに立ち上がるのを、法月は見送るしかない。十九波の言い分は突き放すようだが正しい。法月はただ未練たらしいだけだ。女々しくて苛立ってしまう。風羽の意志を尊重したいと思いながら、その一方で身勝手な寂しさで引き止めたいとも思っている。

「ちゃんとみんなに伝えておくんだよ。あんたもいつまでも暗い顔してないで、願い事を考えておくんだよ」
「……願い事なんて」

 法月は先輩だから、風羽をみっともなく引き止めたりできない。彼女がいなくなる最後の時まで、笑顔で「いつも通り」でいようと思う。それが彼女が唯一言葉にしたお願いなら、精一杯に叶えてあげたい。

「願いなんてたった一つしかないよ」

 自分の中の祓玉に伝える。けして一言一句違えるな。何一つ間違えずに叶えてくれ。出来ないなどとは言わせない。断らせたりしない。法月のこのひと月分の思い出と恋心はそれほどの重さがあるのだから。

「ただ、スガちゃんに、幸せでいてほしいんだ」

 ゆらり、と十九波の尻尾が揺れる。そうだね、アタシもそう願うよ。そう言った十九波の声は法月に届かなかった。