月宿の汚れが悪化してきたことが原因で、戸神はこの地を監視するために派遣されてきた。しかし戸神は烏天狗として、今のこの状況をどう判断すべきかが分からなかった。風羽が月宿の主となったことでこの地は浄化され、ジャスリーンや池の蛙達の負担も、少し前に比べてずっと軽減された。戸神はこの土地が好きだし、この土地に住む人々も好きだ。だから今の状況を、もっと喜ばしく感じても良いはずなのだ。

「おい、戸神。お前まだ起きてたのか?」
「センセイ」

 縁側でぼんやりと物思いにふけっていた戸神に声をかけたのは、米原だった。

「他の奴らは部屋に戻したぞ。お前も、早く寝なさい」
「ああ……」
「どうした、浮かない顔して……って、決まってるよな。菅野のことか」

 あくまで冷静さを失わない米原は、大人だ。対して自分はまだまだ修行が足らない。たった一人の人間の行動にここまで心をざわつかせていては、また師匠に叱られてしまう。戸神は妖怪で、人ではない。だから人に偏ったものの見方をすることは御法度だ。

 けれど戸神は思考を止めることができなかった。今や妖怪となってしまった人間の少女のことを、考えないではいられない。

「なあ、センセイ。アイツはあれで良かったのか?」

 米原は人間だ。冷静なのは、恐らく「人が妖怪となること」について、良く分かっていないからだ、と戸神は思う。話したってどうにもならないと思いながら、戸神は言葉を繋ぐ。今誰かに話してしまわなければ、戸神は烏天狗として山へ帰ることができなくなるような気がした。つい人に寄り添ってしまう自分の悪い性質は、この場所に置いていかなくてはいけない。

「あいつはまだ若い。それに女だ。惚れた男と所帯を持って、幸せに生きる道だってあったはずだ。生まれ育った土地でもない月宿のために、どうして人を止める道なんて選んだんだ? もっと何か、別の方法だってあったはずだろ? 嫌がったり、躊躇して答えを出さないでいたりしていれば、俺達が追い付いて、水の魂鎮の儀式を中断させることだってできた。どうしてあんなにあっさり、妖怪になっちまったんだ。普通の女としての幸せを全部捨てることになるってのに」

 戸神の問い掛けに、米原は答えなかった。当然だと思う。米原は風羽ではない。だから風羽が考えていることを解き明かすことはできない。

「……そんなの、俺が知りたいよ。戸神」

 しばらくの沈黙を挟んで、米原はそう答えた。弱々しく悲しげな声に、戸神は何も言えない。

 戸神は米原へ投げかけてしまった疑問を全て忘れて、山へ戻る準備をしなければならなかった。月宿の土地はこれから美しさを取り戻し、妖怪達にも住みよい土地になるだろう。それは戸神にとって喜ばしいことだ。喜ばしいことでなくてはいけなかった。