これは本当に恋心だろうかと、疑わなかったかと言われれば嘘になるだろう。彼の力になるために師匠に弟子入りして、自分の浄化体質を刷新していく中で、師匠に何度か問いかけられたことがある。 「見返りがあるとは限らん。拒絶される可能性もある。今の広瀬が、お前が八歳のときに会った広瀬のまま変わらんとも限らん。それでもお前はあいつのために頑張るって誓えるか?」 風羽が後悔しないように、失望しないように。わざと悪い未来を口にして、師匠は風羽の覚悟を確かめた。だからそのたびに風羽は、自分の恋心を疑ってかかった。本当に、彼に恋をしているのか、ということを。 心は移ろうものだ。風羽の体が成長していくように、心も変わっていく。もしかしたら広瀬は、もう風羽のことを覚えていないかもしれない。それでも自分は、彼を好きだと言えるだろうか。 彼に会いたい気持ちとほんの少しの不安を抱えて、風羽は高校の入学式を迎えた。出会ったとき、広瀬は十五歳だった。同い年になってみて改めて、彼が年齢に似合わず大人びていたことに気付く。 「……おや」 にゃあ、と声が空から降ってきて、風羽は上空を仰いだ。木の上から一匹の猫が風羽を見下ろしている。下りられなくなったのか、木にしがみついて尻尾を激しく左右に振っていた。 「お待ちください。すぐにお助け致します」 木登りは幼い頃から得意だった。丈夫そうな枝や大きめの窪みに足をかけ、ひょいひょいと登っていく。地面が遠くなって、空に近づいたような錯覚を覚えた。 「こちらへどうぞ」 幹に足を引っ掛けて体を安定させてその猫に手を伸ばすと、おそるおそる近づいてくる。少し強引に体を抱えてやると、猫は風羽の体にしがみついた。そのまま安心させるように顎をくすぐったり撫でてやるうちに、猫は風羽にすり寄ってくる。さて、下りる準備をしなくてはいけない。 「危ないよ!」 声に気付いて視線を下に向けると、いつの間にか人が集まっていた。ハテ何かあったのだろうかと首を傾げてから、口ぐちに投げかけられる言葉から自分を心配してくれているのだと気づく。 「木登りは得意なので平気です」 「いや、でも!」 「こちらの猫をお助けしましたらすぐに降りますので、ご心配なく」 これは早く下りなければたくさんの人に迷惑をかけてしまう。風羽は猫を肩にしがみつかせて、枝の一本に足をかけようと踏み出した。 「おーい、木に登ってる子、大丈夫?」 声が聞こえたのは、その時だ。 「平気です。すぐに降りますので」 頭で考えるよりも先に口が動いて、風羽は硬直した。聞き覚えがある声だ。何故、何事もないかのように応えられたのだろう。その声が脳内を巡り、ぴりぴりと体をしびれさせる。知っている声だ。もうずっと聞きたかった声だ。 動揺でぐらついた体が、重力に従って落ちていく。油断した、と思ったときにはもう遅い。 「っ、危ない!」 地面に叩きつけられるはずだったのに、その衝撃は無かった。柔らかいものを下敷きにしていることに気付いて、風羽はそっと目を開けた。腕の中で猫が忙しなく辺りを見渡す。 「……君、大丈夫?」 指先が伸びて、風羽の頭に載った葉っぱをそっと払ってくれた。じんわりと浮かびそうになる涙を隠したくて俯いていると、猫がなあんと苦しげに鳴いた。腕の中で暴れる猫を目で追いながら、顔を上げられない自分の意気地の無さに頬を張ってやりたくなる。 (こんなに早く、お会いできるとは) 「でも、危ないから木登りはやめた方がいいよ。それにスカートだし、気をつけないと」 昔より少し落ち着いた、柔らかな声が風羽の耳をくすぐる。顔を上げなければいけない。不自然に思われてしまうのは嫌だ。 (本当に、恋なのか、だなんて) (何故そんなことを考えていたのだろう) 声を聞くだけでこんなに胸が痛い。覚えていてくれなかったらと思うと心臓が止まってしまいそうだ。七年という時間を経ても、いや、それだけの時間が経ったからこそ、この想いはいっそう彼に惹かれてやまないものに変わってしまった。 これは恋だ。紛れもない恋なのだ。 風羽は顔を上げる。視界に入った広瀬の顔を見て、風羽は何を言うべきか、と口を開ける。たくさんの言葉がぐるぐると頭を巡って、間抜けに口をポカンと開けたままになる。 「……見つけました」 ようやく出てきた言葉を聞いて、広瀬は目を丸くした。覚えているだろうか。あの時言ってくれた言葉を。 「あなたに会いに来たのです」 風羽だって分かっている。あの約束は、寂しがる風羽を落ち着かせるために言ってくれた言葉だ。幼い頃とは違う。その言葉の突拍子の無さも理解している。けれどそれは風羽と広瀬の間に交わされた、たった一つの約束でもある。 「約束通り、一緒に暮らしましょう!」 思い出してほしい。私を分かってほしい。私はあの時よりもずっと強く、あなたのことを想っているのだから。あなたに恋をしているのだから。 祈るような気持ちを隠すために、風羽は広瀬に抱きつく。その体温を確かめながら、今度こそ彼に想いを伝えるのだと風羽は自分に誓った。 |