風羽のふれた場所から、体が軽くなっていくのを感じた。広瀬は目を瞬かせる。以前、風羽の記憶を消す直前に彼女を抱きしめたときとは明らかに違う。体の奥に沈んだ澱が掬いあげられて、ぱちぱちと弾けて消えていく。

「浄化能力……?」

 思い当った一つの答えが、呆然と口から洩れていく。しかしどういうことだろう。いや、それよりも何故風羽は記憶を無くしていないのだろう。この状況になっている理由が全く分からず、頭が混乱する。

 千木良は風羽を一瞥すると、その黒い烏の羽根を羽ばたかせ、去っていってしまった。残った風羽に事情を聞こうにも、彼女は広瀬にしがみついたまま顔を上げない。広瀬は霞んでいた視界がはっきりとして行くたびに心を落ち着かせ、冷静さを取り戻していった。

 世代交代。彼女の浄化能力。二つの言葉を重ねて、広瀬はある一つの可能性に至る。

 まさか。

「君が、次の月宿の主なの……?」

 浄化能力を持ち、現在の月宿の主に匹敵する力を持つ妖怪。後ろから回された風羽の手に自らの手をふれさせると、彼女の手が震えた。そっとその手を外させて、広瀬は風羽に向き直る。重かった体は、風羽のおかげで随分軽くなった。しかし風羽は今にも泣きそうに眉を八の字にして、今度は正面から広瀬に抱きついた。突然のことに体が後ろに倒れそうになるものの、何とかその体を受け止める。

「もう少し、」

 まだ浄化が終わっていません、と付け足されて、広瀬はだらりと下げていた腕を、導かれるように彼女の背に回した。指先でふれた制服の生地、そこから伝わってくる彼女の体温が、これは夢ではないのだと訴えかけてくる。ふれる面積が広ければ広いほど、それだけ多くの穢れが浄化されていくようだった。思わずすがるように彼女を抱きしめる。体の緊張が解けて、強張っていた体全体が弛緩していくのを感じた。

「広瀬先生、すっぱい葡萄の話を覚えていらっしゃいますか?」
「え……?」

 風羽の突然の一言に目を丸くしていると、彼女は広瀬から体を離した。真っ直ぐに広瀬を見つめるその目は、先ほどの泣きそうな色を引きずりながら、それでも真摯に広瀬に想いを伝えてくる。

「私は、諦めるのは嫌です。すっぱいに違いないと、そう言って諦めるより、食べてすっぱいことを思い知りたい。それがどんなに茨の道でも、あなたを失うよりはずっと良い」

 助けてほしいと言えなかったのは、大丈夫じゃないと声を大にして叫べなかったのは、本当はただ、口にして甲斐がないことを思い知るのが怖かったからだ。叶わないことを願って叩き潰されるくらいなら、答えを出さない曖昧さの中にたゆたっていたほうがすっとましだった。

 けれど彼女は、それでも願うと言う。叶えると言う。たった一つ、広瀬を失うこと以外に怖いことなど無いのだと言う。

「……菅野さん」
「私の七年分の恋心を舐めないでいただきたい。私の心を否定しないでください。……優希くん」

 少女は、美しく笑う。全てを包むように、頑なな広瀬の心を溶かすように、強く広瀬を抱き締めて、柔らかく微笑んでみせる。

「私はあなたを死なせたくない。失いたくない。必要なら、妖怪にだって、主にだってなります。……死なないで、ください」

 あのとき八歳だった少女は、十五歳になって。

 幼く未熟な恋心のつぼみを膨らませ、春を待ち、鮮やかな花を咲かせて。

 そして今、風羽は広瀬の目の前にいる。あなたが好きなのだと、その体の全てで伝えようとする。その恋心で広瀬を救おうとする。

「私は、あなたが好きなのです」

 恋する少女はまるで花のように笑う。可愛い女の子だとは知っていたけれど、こんなにも、きれいな女の子だっただろうか。こんなにも美しく笑う女の子だっただろうか。

「ほんとに、もう……」
「諦めてください。約束は破ってはいけません」

 広瀬の呆れ声に引かれたように、風羽も態度を軟化させてほんのちょっと、意地悪な口調で広瀬を責める。広瀬はそんな彼女の手を取ると、その手を自分の頬に当てさせた。

(ああ、もう)

 約束を破って、本当のことを話してもその記憶を消そうとするようなろくでもない男を、彼女は好きだという。真っ直ぐに何度でも好きだと伝えてくる。人をやめて妖怪になってまで広瀬を救おうとする。

(君は、ばかだよ)

 けれどその想いに応えたいと思ってしまった時点で、広瀬の負けは決まっていたのだ。

「そうだね。さすがにもう諦める」
「え?」

 広瀬の回答に風羽は首を傾げた。こんなにあっさりと広瀬が折れると思っていなかったのだろうか、言葉の意味を問うようにまじまじと見つめてくる。それを見ながら、ああ、やっぱり可愛い女の子だな、と広瀬は思った。

「恋に年齢は関係ないんでしょう?」

 広瀬の言葉に、風羽は目を見開く。そして今度は戸惑うように顔を赤らめ、「はい、関係ありません」と照れくさそうに笑った。