掌に集まってくる穢れを見ていると、今にも倒れてしまいそうだった。穢れを集めて精製された禍玉をごくりと飲み込んだ。重かった体がいっそう重くなって、広瀬はその場に足をつく。月宿池に掛った橋の中央で、広瀬は穢れを自身に集めていく。

(あと少し)

 しかし、もう上手く穢れをコントロールできなくなっている。黒い霧となって集まってきた穢れは先ほどよりもずっと少なく、勢いもない。禍玉の形になるほどの穢れを、今の自分が集めることができるだろうか。

(せめて、彼女が住んでいる間の分くらいは、浄化しておきたかったけどな……)

 ぐっと力を込めて、集まってきた穢れを一か所に集中させる。するところりと黒い禍玉が手の上に転がった。濃縮された穢れに思わず吐き気を催したが、これを飲み込んで体内に収めなければ、ここからまた穢れが広がってしまう。

「おい」

 ふわりと黒い影が上から落ちてきて、広瀬は顔を上げる。頬に塗られた隈取りがやけに赤く、いつも以上に彼が異なものに感じられた。存在としては神聖なのに、その態度が傲慢不遜であることのギャップがそうさせているのかもしれないと思うと、場に似合わず笑みがこぼれてしまった。

「なんや笑うて。気色悪」
「何でもありませんよ」
「さよか。広瀬、俺の用件、分かるか?」
「分かります。その為に待ってたんですから」

 広瀬は手にした最後の禍玉を、勢いよく飲み込んだ。つるりとした球体が喉を滑り落ちて、食道を押しながら体の奥に潜り込んでいく。

(「大丈夫ですか」、だって)

 こんなときにも、頭に浮かぶのは彼女の言葉だ。夕方の気配が満ちていく資料室で、振り向かないと思っていた彼女は振り向き、広瀬に問いかける。大丈夫ですか。そう言って広瀬の体調を慮る。

 烏天狗から罰せられれば魂も残らない。この体は祓玉に姿を変え、広瀬という個体はこの世から無くなる。千木良のことだ、教師として暮らしたこの数カ月の記憶を上手に改竄して、広瀬の痕跡を一つも残さないことなど容易いだろう。

(大丈夫だよ)
(大丈夫だ)
(大丈夫じゃなくちゃいけない)
(大丈夫大丈夫大丈夫)

「月宿の主よ、貴殿の力不足だ。烏天狗としてこの土地を汚した責任を問う。……何か弁明は?」
「いいえ、何も」

 弁明が何の意味になるのだろう。広瀬で浄化が間に合わなくなったのだから、烏天狗が動くのは必然だ。そういう約束だったし、何よりそれが一番都合が良い。犠牲が広瀬一人で済む。広瀬がいなくなっても、一陽と創一の二人がいれば月宿の土地はどうにかなるだろう。だから、これで良いのだ。

「命乞いでもせえや。興がそがれるわ」
「したら助けてくれるんですか?」
「何や、助かりたいんか?」

 からかうように千木良が言う。失言だったと思っても烏天狗の嫌味な笑顔は、広瀬に質問の解答を促した。

「別に、もう。どうでも」

 風羽のことを自覚する前だったら、助からなくて良いと答えられたかもしれなかった。出来る限り何も考えないように浄化に努めていた頃なら、こうやって気持ちを揺さぶられることなく処罰を受け、文句のひとつも言わずにこの月宿のために消えてやれたかもしれない。

 けれど、もうそれはできそうにない。

「……消えることを怖がってどうなるんですか。助かりたいと言ってどうにかなるんですか。大丈夫じゃないしんどい苦しいって言って、現状がどうにかなるんですか」

 自分しかこの土地の穢れをコントロールできない。でも穢れを浄化できないから自分の中にため込むしかない。出口はどこにもないのだ。逃げられないのだ。だったら全てをあきらめて受け入れる以外に、どんな解決方法があると言うのだ。

「……どれだけ平気なふりができても」

 ああもう、目の前が霞んでしまう。

「本当に平気なわけじゃ、ないのに」

 言い聞かせることも、平気なふりをするのも、もうたくさんだ。消えることを恐れながら、このまま追いつめられるように生きているのも辛かった。矛盾しているだろうか。けれどこれが本心なのだ。

「他には?」

 広瀬の葛藤を見て見ぬ振りをしているのか、千木良はいつも通りの表情と態度で見下ろしている。広瀬は首を横に振った。もう何も言いたくなかったからだ。

「では、処遇を言い渡す。月宿の主よ」

 冷たい烏天狗の声が月宿池に響く。広瀬はぼんやりと千木良の声を待った。

「世代交代や」

 けれど降ってきた答えは、広瀬の予想したものとは全く異なった。せだいこうたい。言われた言葉を理解しようとしても、糸がぷっつりと切られてしまったかのように頭が働かない。

「後は勝手にせい。このめんっどくさい男を」

 千木良の声は広瀬を通り過ぎ、その後ろに投げかけられる。

「まだお前が好きやて言うならな」

 足を地面についたまま動かないでいる広瀬に、そっと腕が伸びてくる。後ろからぎゅっと抱きしめられて、広瀬は思わず支えを失い、尻もちをついた。広瀬のものではない柔らかい猫っ毛が頬をくすぐる。広瀬は呆然と後ろを振り向いた。

「……ならば何故、あのとき、大丈夫とお答えになったのです」

 しがみつくように抱きしめられて、彼女の声が震えていることに気付く。彼女の白い、けれど不思議と生命力を感じるしなやかな腕がいっそう強く広瀬を抱きしめた。広瀬は次々と浮かんでくる疑問に対する答えが見つからず、ただ目を白黒させるばかりだ。

 分からない。何故だ。

「あなたはうそつきです。七年前だって、必ず起してくださると約束なさったのに。一緒に暮らそうと、言ってくださったのに」

 どうして風羽が、ここにいるのだ。