「なあ千木良、どうにかならないのか」
「どうやろなー」
「……最近、月宿の妖怪達もざわついてる。広瀬が体調を崩してるせいで、土地の穢れがコントロールできてないせいだ。十九波さんが人間にやらせてる土地の浄化も思わしくない。このままだと……」
「あいつが選んだ道やろ。部外者の俺らがぐちぐち言うてどないするん」
「俺はあいつを助けたいよ。広瀬一人がこの土地のために命を張るなんて、そんなの、理不尽だろ」
「美咲ちゃんは生徒思いの立派な教師やなあ。尊敬するわあ」
「話を逸らすんじゃない」
「俺は烏天狗やで? この土地に干渉することは、即ち烏天狗の粛清や。それに、主である広瀬がこの土地でどう行動しようがあいつの自由で、俺にはどうにも出来んわ」

 烏天狗は空を仰ぐ。以前と違って月宿の土地はひどく穢れが溜まっている。広瀬自身に蓄積された穢れももう限界だ。主としてはもう失格レベルだろう。

 もしかすると、重い腰を上げる時が来たのかもしれない。烏天狗として、出来損ないの主を罰する時が。




 学生寮の水道管の工事が終わり、月蛙寮で過ごしていた寮生達も元の学生寮へ戻って行った。広瀬は寮監としての役目を終え、今は一人暮らしに戻った。この頃になると初々しい制服をぎこちなく着ていた新入生の顔が立派に高校生になって、ちらほらと夏服の生徒も見られるようになってきた。

 広瀬はこのところ、どうにも体調が悪い。今日も放課後になるともうへとへとで、さようならと声をかけてくれる生徒達にも弱々しい笑みを返すことしかできなかった。全く、情けないことだと思う。

 体が重く、目の前がかすむ。この前の仮浄化が影響しているのかもしれない。気だるさのせいか仕事にも集中できないし、体全体にまとわりついた穢れは禊祓でも落とせないくらいになってしまった。

 体を引きずって資料室まで逃げ込み、机にうつ伏せになった。視界がましになるだろうかと思ってかけていた眼鏡を乱暴に外すと、その勢いのまま机に落ちて派手な音を立てた。レンズに傷がついたかもしれない。けれど確かめるのも億劫だった。

(千木良先輩はまだかな……)

 かつて広瀬が主になったとき、千木良は盛大にため息を吐いた。何故そこまでしたのか心底不可解だと言わんばかりに眉を寄せていた。広瀬が月宿の主の力を得て、一陽に誘われ妖怪となったことは彼にとっては相当のイレギュラーだったらしく、かなり渋い顔をしていたことを覚えている。

 しかし新しい主が擁立されたとなれば、土地を監視する立場である烏天狗も黙っているわけにはいかなくなった。しかも広瀬は呼び込み体質であり、月宿の穢れをコントロールすることはできても、浄化することができないのだ。この一大事に千木良や他の烏天狗も立ち上がり、次世代の月宿の主となれる妖怪を探した。けれど主の力が広瀬に定着してしまった今、単に力があるか、又は浄化能力を持つだけの妖怪では月宿の主にはなれない。両方の条件を満たし、かつ「月宿の主として一生を過ごして構わない」なんて言う妖怪が、そう簡単に見つかるはずもなかった。

 広瀬はその時、千木良に聞いたのだ。もし自分がこのまま主として仮浄化を続けた場合、どれ程の時間を稼げるのか、と。

「十年、いや、五年かそこらやな。時間とともにお前に定着した主の力が安定すれば、お前の中に納められる穢れのキャパは増えるし、この土地の環境汚染に対する問題意識が根付けば、その分はお前の手によらずとも浄化される。やけど、結局入れ物は入れ物や。入れ続ければ限界が来るわ」

 五年か十年。それくらい持てば僥倖だ。広瀬とともに土地を浄化した友人達がこの土地で過ごしている間だけでも仮浄化を続けられれば、広瀬としては十分だった。

 だから、広瀬と千木良はそのとき契約したのだ。もしも次の月宿の主が決まらず、かつ広瀬がこれ以上の仮浄化を続けられなくなった場合、烏天狗として月宿の主を罰し、この土地を烏天狗の手で浄化し清めること。これは一陽と創一には話していない。一陽は烏天狗が嫌いだし、創一は広瀬が罰せられる状況を黙って見過ごす性格ではない。

 広瀬はもう長くない。あとは千木良が重い腰を上げ、烏天狗として広瀬を罰しに来るのを待つばかりだ。

(大丈夫、大丈夫だ。あと少しだ)
(大丈夫なんだ)

「……広瀬先生?」

 突然聞こえた声にびくりと体を震わせ、広瀬は顔を上げた。霞む視界をごまかすように手で目をこすると、そこに立つ女生徒の姿がはっきりする。彼女が学生寮に戻ってからはなかなか顔を合わせる機会がなかったから、何と声をかけるべきか暫く悩んでしまった。

「どうなさったのですか? こんな場所で」
「……少し、具合が悪くて」
「何と。保健室に行きましょう」
「いいや、平気。少し休めば良くなるよ。菅野さんこそどうしたの?」
「放送部の原稿を作るための資料を探しに参りました」
「ああ、それなら昔、そこの……、菅野さんが立ってるとこのすぐ隣の棚に、良いお手本があったはずだよ」
「良くご存じですね」
「俺、元放送部だからね」
「ほう、それは初耳です」

 風羽はあの日以来、広瀬に好意を示すことは一切無くなった。ごく普通の教師と生徒の関係性を得て、広瀬は安堵している。寂しくないかと言われれば嘘になるが、それ以上にあのまっすぐな目に見つめられる方が落ち着かなくてたまらない。

「おお、ありました」
「良かった」
「ありがとうございます。では、失礼いたします」
「部活がんばってね」
「はい」

 風羽は広瀬に背を向けると、ドアに向かって歩き出す。広瀬はその背を見つめながら、ああこれで、ようやく全て正しくなったのだ、と笑みを零した。消されるはずだった風羽の記憶は予定通りに消えて、広瀬ももう彼女の恋心に振り回されたりしない。彼女は広瀬を振り向かず、通り過ぎていく。

 これで本当に、全てが丸く収まるのだ。

「広瀬先生」

 けれど彼女は足を止めて、広瀬を振り向いた。半端に開いたドアの向こうから、黄昏時の気配が部屋に忍び込んでくる。

「どうしたの、菅野さん」

 ほら早く、君は向こうに行かなくちゃいけないのに。向こうに行っていいのに。本音をきゅうっと包み込んで隠して、広瀬は「広瀬先生」と呼ばれるにふさわしい笑顔を風羽に向ける。

「本当に、大丈夫なのですか?」

 彼女の目は広瀬を射抜くようだ。影を縫い付けられて、動けなくなってしまう。少し遅れて、広瀬は答える。

「大丈夫だよ」

 広瀬の大嘘に彼女は気付かず、そうですか、と返事をすると軽く会釈をして、今度こそ資料室を出て行った。ぱたぱたと廊下を早足で駆けていく音が遠ざかって行って、広瀬は目を閉じる。そしてもう一度机に顔を伏せると、大きく息を吐いた。何だか呼吸がしにくかった。