(俺は、君が会いに来てくれたことが、本当に嬉しかった)

 広瀬は土地を離れられない。月宿という土地のために生きる妖怪になったからだ。だから、会いに来てほしかった。妖怪も人も関係なく、広瀬優希という存在を慕ってくれた一人の少女に。

「俺は、君に会いに来てほしかったんだ……」

 ぽつりと漏らした言葉は静かに夜に溶けていく。気付かないように目を逸らしていた本音が次々と胸に溢れていってしまう。声を上げて泣き出してしまいたいのを抑えるのに必死だった。ずっと気付かないように目を逸らしていたのに、一度気付けば春に花が芽吹くように開いていく。

 彼女に出会ったのは間違いだと思っていた。広瀬はもう妖怪なのだから。人の世に関わるべきでなかった。風羽に出会ってはいけなかった。そう思ったから彼女の記憶を消した。あの一週間の記憶と、それにまつわる彼女の一連の行動に関する記憶を奪った。それが彼女の為で、同時に自分の為だと言い聞かせて。

 けれど本当は、広瀬は期待していたのだ。記憶が消えても、覚えていてくれないかと、何かのきっかけで月宿へやってきてくれないかと。覚えていてほしかったのだ。記憶を消さないでほしかったのだ。勿論そんなこと、言えるはずもなかったけれど。

 広瀬との一週間を忘れてしまうのだから、彼女がこの土地に来ない可能性の方が高い。それでも、会うためでなくていいから、何かがきっかけになってこの土地に来てくれないか、と。

『行きます。必ず行きます。優希くんに、会いに』

 その迷いのない約束が広瀬の支えだった。義務感だけでは生きていけない広瀬の拠り所は、広瀬を慕ったたった一人の女の子との、記憶ごと無くなるはずの虚しい約束だった。

 彼女が会いに来てくれるなら頑張らなくちゃ。土地を綺麗にしておかなくちゃ。

 たくさんの義務感の中に隠した、小さな望み。広瀬優希に懐いてくれた小さな少女。もしも、もしも会いに来てくれたらと唱えることで、広瀬は自分を保っていた。この土地を綺麗にしてきた。それが見返りだ。広瀬がこの土地の仮浄化を続けられる理由だ。

 一緒に暮らそう、だなんて。それは強情な彼女を宥めるために発した言葉ではない。ただの後押しだ。必ず会いに来てくれという願いの発露だ。たくさんの理由で逃げ道を塞いで、人であることをやめた広瀬のささやかな願いだった。

 そして彼女は、本当に会いに来てくれた。広瀬への恋心を鮮やかに咲かせて、広瀬の元にやってきてくれた。

『あなたに会いに来たのです』
『約束通り、一緒に暮らしましょう!』

「もう、十分だな」

 はは、と乾いた笑みを漏らす。消してしまった記憶は戻らない。彼女の恋心を摘み取ったのは自分なのだから自業自得だ。けれど、これで十分だ。彼女が会いに来てくれたという確かな事実が、広瀬にこの土地の仮浄化をさせる理由になる。

 見返りは得た。後は義務を為すだけだ。彼女が今暮らすこの土地を綺麗にしよう。そのために死んでしまっても構わない。

「菅野さん」

 広瀬に恋をする十五歳の彼女に向けて。

「風羽ちゃん」

 広瀬を慕った八歳の彼女に向けて。

「俺に会いに来てくれて、ありがとう」

 果てのない夜空を見上げながら、彼女が目覚めないようにそっと囁く。暗闇の中、背中にある彼女の体温だけが明確だった。