暗闇の中、背中にある風羽の体温だけが明確だった。重力のせいでずれてくるのを何度か抱え直すと、彼女の規則正しい寝息が広瀬の首筋をくすぐった。

 寮につくまでに風羽が目覚めないことを祈りながら、夜の道を歩いていく。小石が足にぶつかって、ころころと地面を転がって行った。ううん、と唸る声がして少しだけ後ろを見やる。彼女は安心しきった顔で頬をぺたりと広瀬の肩に押し付けていた。

 そのあどけない顔を横目に、これで良かったのだ、と言い聞かせる。これで風羽が広瀬を追い掛けることも無くなる。彼女は甲斐のない恋をして、人間の限りある時間を無駄にしなくて良い。広瀬はこれで土地掃除の呼び掛けと、穢れの仮の浄化に集中できる。彼女の一途な恋心に当てられて、心を乱すことも無くなる。

 彼女に恋するくらいなら、忘れられた方がずっと良い。

 だから、これで良いのだ。

(あー……。痛いの、収まれよ)

 まだ少し胸の辺りが痛む。穢れを無理やり自分の中に閉じこめているのだから当然だ。今は小田島が倒れているから尚更主である広瀬の負担は大きい。けれどやらなければいけない。自分は月宿の主なのだから。

(本当にそれだけですか、って)

 風羽の問い掛けは真っ直ぐに、広瀬の嘘の殻を破ろうとする。どうして妖怪になったかなんて、今更思い出したって意味が無い。広瀬は妖怪で、月宿の主で、この土地の仮浄化をしている。これはただの日常で、広瀬の義務だ。やらなければいけないことだ。

 それは、本当に?

(俺が妖怪になった理由は?)
(妖怪になったら自分の呼び込み体質を制御できるようになるから)
(そうなればみんなに迷惑をかけなくていいと思ったから)
(自分が嫌いで、生きている意味が分からなくて、自分が妖怪になることで全てが丸く収まるならそれで構わないと思ったから)

 たくさんの理由を並べ立てて逃げ道を無くして、ようやく広瀬は主になることを決めた。ならば今はどうだろう。自分にとってマイナスにしかならない仮浄化を続けているのは、何故だろう。死んでしまいそうだと言うのに止めないのは何故だろう。

(俺が仮浄化を止めないのは?)
(俺が月宿の主だから)
(他にできる人がいないから)
(……あれ、でも)
(そんな義務感だけで続けられる程、殊勝な性格だっけ、俺)

 大嫌いな自分のことなんかどうでも良い。けれど他人のことも好きな訳ではない。かつての月宿の主のように人間全般を愛しているということはけしてない。広瀬は自分の利己的な一面を自覚しているし、行為に見返りを望まないような聖人君子でもない。義務感だけで身を削れたりしない。

 妖怪になることで得られたものは、「呼び込み体質のコントロール」だ。それは広瀬にとって見返りだった。ならば今、仮浄化によって得られる見返りとは何だ?

(俺がこの土地を、綺麗にしておきたい理由は?)





『……私はもっと、優希くんといたい』

 幼い声が広瀬の名前を呼ぶ。

『では、私が月宿へ行きます』
『会いに行きます。優希くんに』
『行きます。絶対に』

 広瀬は足を止めた。何故、今思い出すのだろう。あの夏休みの一週間。架牡蠣で出会った幼い少女との別れの時間。眠れないと言って困った顔をして、少女は広瀬の部屋にやってきた。

『行きます。必ず行きます。優希くんに、会いに』

「ああ、もう」

 叫び出したかった。泣き出したかった。気付かないままでいたかった。

「理由は、君だ」

 広瀬にとっての見返りは、彼女だ。