不愉快さに目を覚ますと、じっとりと寝間着が汗で湿っていた。天井に向かって伸ばしていた手を、重力に従って落とす。体を起こすと、汗で濡れた背が空気に冷やされて鳥肌が立った。

 先程までの夢の中の光景を思い出し、広瀬は布団を蹴り飛ばして廊下に出た。どうして眠ってしまったのだろう。昨日、月宿神社へ単身で向かった風羽を迎えに行って、みんなで寮へ戻った。風羽が人でなくなったことに対して、誰もがショックを受け口を噤んでいて、当事者である風羽も何も語ろうとしなかった。ただ米原一人が冷静で、呆然とする寮生を「今日は疲れているだろう」と部屋へ押し込んだのだ。こういうとき、大人という存在の有り難さが分かる。そして自分が子供であることを自覚して絶望する。

 風羽の部屋の前まで来て、ノックを試みた時点でようやく今が日の出もまだという時間であることに気付く。通りで暗いはずだ。女性の部屋を何の理由もなく不躾に開くことも出来ず、広瀬は逡巡する。きっと彼女は今日も鍵を開けたままだ。扉に額をくっつけて深く溜め息を吐く。深呼吸の意味合いがあったのか、それともただ憂鬱が原因なのか、その溜め息の理由は広瀬にも判然としなかった。

「……広瀬くん?」

 扉の向こうから呼ばれ、驚いて顔を上げる。がた、と建て付けの悪い扉を揺らしてしまう。ぎしり、ぎしり、と床が軋む音がして、目の前の扉が開く。制服のままの風羽がそこにいた。

「ごめん、こんな時間に」
「いえ。どうされました?」
「え、と」

 どう、と聞かれて広瀬は立ち竦む。広瀬は、自分が何を考えてここまで来たのか分からなかった。どうしようもなくて、ただゆるゆると右手を伸ばし、彼女の手を取る。

 不安が風羽にも伝わったのか、彼女はその手を引いて部屋に招いた。彼女の部屋は相変わらず余計なものがなくてすっきりとしていた。それがそのまま、ここには彼女を留めるものがないと語っているような気がして、思わず目を逸らした。

 広瀬は思い出している。つい昨日、ここで風羽は広瀬に、「私は広瀬くんに恋をしている」と告げたのだ。そして広瀬も、受験のあの時から風羽が好きだったことを告げた。広瀬は今隣にいる風羽を見つめ、握った手を一旦解いて、指を絡ませる。こうすると、手の大きさの差が明確になった。風羽の手は小さかった。広瀬の指は風羽の手の甲をすっぽり覆ってしまう。こんな小さな掌の持ち主が、これから月宿の土地を背負うと言う。

 広瀬はたまらなくなって、風羽を抱き締めた。彼女が痛いと感じるくらい、自分と彼女のすきまが限りなく狭くなるよう、腕の中に閉じ込めた。風羽は今日のところ、この寮に戻ってきた。それは小田島の配慮だった。きっと別れまでの猶予を与えてくれたのだ。けれど、それはいつまで? 月宿の主は、一体いつまでこちらにいられるのだろう? 広瀬はあとどれだけ、この小さな女の子を抱き締めることができる?

「広瀬くん、お願いが、一つあるのです」

 こんなに強く抱き締めているのだからきっと痛いはずなのに、彼女はそれに文句を言ったりはねのけたりしなかった。肩口に押し付けられたせいでくぐもった声は、少しだけ震えていたような気がした。

「何? なんでも言って」
「少し体を離して、目を閉じて欲しいのです」
「……何で?」
「接吻を、したくて」

 あの時、「まつげが長いね」なんて言って、恥ずかしさを誤魔化さなければ良かった。初めてのキスをこんなに痛くて、悲しいものにしたくなかった。後悔しても、どうにもできない。

 広瀬は彼女を抱き締める腕の力を弱めて、その頬に手を添える。すべすべとした、柔らかな女性の肌だった。

「女の子なんだからさ、キスしてって、言えばいいのに」

 広瀬は、今度は少しの躊躇いもなく、風羽に口づけた。恐々と広瀬の肩にふれてきた手を引いて首に回させる。隙間を埋めたかった。ぴったりと合わせて、離れられないものになりたかった。

 広瀬は自分が聞き分けの良い方だと思っていたけれど、この場面に向かい合って、そうでないことを自覚した。広瀬は風羽を離したくなかった。月宿の主などにしたくなかった。彼女が人を止めたこの場所で、のうのうと呼吸を続けて生きていかなければならないことが、悲しくて仕方がなかった。