広瀬は迷いの無い足取りで、月宿池の橋を渡る。ぎしりぎしりと木の軋む音が響いた。風羽は身を潜ませてその後を追う。

「随分遅くに来たんだな」

 凛とした声が聞こえ、広瀬は顔を上げた。

「水城先輩」
「一陽で良いと何度言えば分かるんだ」
「すみません、一度定着した呼び方ってなかなか修正できなくて」
「ふん」

 一陽と呼ばれたその人物は、どこか不機嫌そうに広瀬の前に立った。整った顔立ちのせいで男性か女性か判然としないが、身に纏う服装は神官の着る服装に似ていた。広瀬は「先輩」と呼んだが、どう見ても広瀬より年上には見えない。

「小田島先生は?」
「……今は眠ってる。ここしばらくは調子が良い方だ。多分、あの化け猫が人間に浄化活動をさせているからだろう」
「でも、浄化は間に合ってはいませんよね」
「ああ」
「なら、すぐにやります」
「……でも……」

 急に歯切れの悪い返事をする一陽に、広瀬は曖昧な笑みを浮かべた。

「別に今すぐ死ぬ訳じゃないんですから、大丈夫です。後任さえ見つかれば、すぐにこの仕事はやめます」
「創一は、これ以上は危険だと言っている」
「そうなったら烏天狗が来ますよ」
「それじゃ駄目だから言ってるんだ!」

 風羽には会話の意味がさっぱり分からない。しかし広瀬の「すぐに死ぬ訳じゃない」という言葉が、耳の奥に絡みつくように残った。すぐで無ければ、いつか死んでしまうのか? それは寿命以外の理由で?

「良いんです、別に。水城先輩は小田島先生を診てあげてください」

 曖昧な笑顔のまま、広瀬は右腕を水平に上げ、払った。それと同時に風が起こり、風羽は思わず目を閉じる。風が収まってから、風羽はゆっくりとまぶたを上げた。

「……え?」

 意図せず漏れた声は風に掻き消され、広瀬達に届くことはなかった。風羽は目を見開き、広瀬を見つめる。どうして、と問いそうになる口を両手で塞いだ。

 広瀬が空を仰ぐと、黒い霧がごうごうと竜巻を描いた。黒い汚れのようなものが、広瀬の周りに急激に集められていく。

「おい! もうやめろ! それ以上は……」
「無理はしてませんってば」

 一陽の制止にも広瀬は耳を貸さない。そのまま右手を差し出すと、霧は集まり、一つの玉になる。真っ黒な球体に一筋赤い線の入ったそれを、広瀬はためらいもなくごくりと飲み込んだ。

「……っ」

 風羽は息を呑む。あれが何かは分からないが、人間が飲み込んで消化できるようなものではないだろう。禍々しい色をしていた。広瀬は大丈夫なのだろうか?

「っおい!」

 風羽の懸念通りに、広瀬はゆっくりと膝を落とした。慌てて一陽が支えるものの、広瀬はその手を拒む。

「まだ、あまり触らない方が良いです。穢れに当たるとまた……」
「少しくらいなら平気だ! 良いから、すぐに向こうで身を清めろ。そのまま放っておくよりましだ」
「……水城先輩って、案外世話焼きですよね」
「お前、軽口を叩いている場合か……!」

 その場から動こうとしない、否、動けない広瀬は苦しげな表情の中に笑みを浮かべている。風羽が思わず陰から身を乗り出すと、ガサリと物音がした。草を踏みつけてしまったようだ。

「誰だ!」

 すぐ物音に気付いた一陽は誰何の声を上げ、鋭い眼差しで風羽を睨みつける。風羽が観念して姿を表すと、今度は広瀬が目を見開く番だった。

「菅野さん、どうしてここに……?」
「寮を出て行く広瀬先生を見かけて、追い掛けて来ました」
「そう……」

 迂闊だったな、と溜め息を吐く広瀬に、風羽は手を差し伸べる。捕まってください、と言っても広瀬は緩く横に首を振るだけで、風羽の手を取ろうとはしなかった。

「広瀬先生は、一体何をしていらっしゃるのですか」

 風羽は手を差し伸べたまま、地面に座り込む広瀬に、屈んで目線を合わせる。夜に冷やされた木目が風羽の膝に当たった。

「どうして」

 近付いたことでようやくはっきりと見えた。風羽は疑問ばかりが浮かぶ脳内をどうにか落ち着けながら、俯く広瀬の両頬を包んで上向かせる。

「どうして、あの時の、私が出会ったばかりの頃の姿をしていらっしゃるのですか」

 月によって照らされた頬には、少年らしいあどけなさが残っていた。全体的な印象は変わらずとも、決定的な違和感は拭い去れない。それは広瀬が先ほど右腕を払ったと同時に起きた変化だった。

 「広瀬先生」という青年はここにはいない。風羽の目の前にいるのは紛れもなく、かつて風羽が恋をした「優希くん」という少年だった。まるで、時間を巻き戻されてしまったかのようだ。

「あんまり知られたくなかったんだけど……。見られた以上は、説明するよ」

 風羽の手を払い、広瀬は立ち上がる。立ち上がって彼に並ぶと、いつもより目線が近いことに風羽は気付いた。もし広瀬と風羽が同い年だったら、こうやって見つめ合うことがあったのだろうか。

「おい。お前はまず体を清めろ。話はそれからだ。……そこの人間もな」
「私もですか?」
「ああ。社には出来る限り穢れを持ち込みたくないからな」
「え、社に入れて良いんですか? 先輩、人間は嫌いだって昔から……」
「僕が見えてるんだったら、普通の人間じゃないだろう。無穢体質か、玉憑きか……。今の僕には分からないが、どちらにせよ、夜風吹きすさぶ中で話など出来まい」
「お心遣いありがとうございます」

 風羽が素直に頭を下げると、一陽はフンとそっぽを向いた。どうやら悪い人ではないようだ。

「決まったな。来い、主殿、人間」

 こちらに背を向けた一陽に続こうとして、風羽は思わず足を止める。

「主殿?」

 その声に気づいた広瀬は、苦笑いを浮かべながら風羽を振り返った。

「俺のことだよ」

 詳しい説明は後でするけど、と前置きしてから、広瀬はようやくその一言を告げる。

「俺、月宿の主なんだ。……人間じゃない。妖怪だ」