釘をささなければいけない、と広瀬は思う。風羽が抱く広瀬への好意は、本来あるはずのないものだ。広瀬が架牡蠣を去った時点で無くなるべき想いだったのだ。

 十九波と結局連絡を取ることは叶わず、風羽が何故広瀬と過ごした記憶を持っているかははっきりしない。けれど理由がどうであれ、彼女は記憶を持っており、挙げ句広瀬を好きだと繰り返す。……けして叶わない想いで、広瀬を振り回す。

 広瀬は、彼女の想いに答えられない。彼女の幼い頃を知っている分突き放すのは心苦しいが、このまま問題を放置しておけるほど、広瀬は寛容ではなく、またいい加減でもなかった。

「俺は、君を、好きになることは、ないよ」

 その言葉が彼女を傷つけてしまう可能性があると知りながら、広瀬は一字一句違えないよう、丁寧に発する。レタスを千切ってサラダに盛りつけていた風羽が手を止め、隣で味噌汁の味見をする広瀬を見上げた。気まずさから目を合わせることは出来ず、広瀬は豆腐がぷかりと浮かぶ手鍋を見つめたままだった。

 寮生活を始めてから、土日の夕飯の準備の持ち回りはすっかり恒例となっており、今週は広瀬の当番だった。だから、風羽が「手伝いましょう」と言って台所にやってくるのも、広瀬は予測していた。

 意を決して話し出した広瀬を見ながら、風羽は首を傾げている。

「俺は君を好きにならない。だから、俺を好きでいるなんて、やめた方が良いよ」
「何故、好きにならないと決めつけてしまわれるのですか?」
「……ならないものはならないよ」

 まるで子供の言い訳だ。けれど、風羽にこれ以上を話すことは憚られた。

「だから……」
「それは出来ません」

 はっきりと言い切る風羽に、広瀬はたじろぐ。広瀬がやんわりと彼女の告白を断ったときと同じように、風羽は落ち込むこともなく、ただいつも通りの態度でそこに立っている。

「好きだと思う気持ちは、理屈で止められるものではありません」
「俺が絶対に、君を好きにならないと言っても?」
「はい」
「……どうしてか、聞いてもいい?」

 広瀬には分からない。望みが見えないのに、けして報われないと拒絶されているのに、それでも諦めないでいる理由が分からない。広瀬はあらゆることに淡泊であろうとしてきたし、何かに執着を持ったことも、覚えている限りで無い。広瀬が彼女くらいの年のときにはすっかり世の中を斜に構えて見ていて、人と適度な距離を計って生きる処世術を身につけていた。

 そう、だから広瀬は、そんな自分が嫌いだった。嫌いだったからこそ、選択してしまった。

「具体的に述べると、たくさんあります」

 風羽は蛇口を捻って手を洗うと、改めて広瀬に向き直る。広瀬もコンロの火を止めると、幼い頃から変わらずに澄んだ瞳を見せる風羽を見つめた。

「山で遭難しかかっていた私を助けてくださいました。その時泣き出した私を抱き締めて、慰めてくださいました。祖父に言わないでほしいと言う、幼い見栄からの約束も守ってくださいました」

「あなたの後ろをついて回る私を、許容してくださいました。本当は、烏天狗殿がいたから道案内など必要が無かったのに、あなたを追いかける私の手を引いてくださいました」

「一緒に買い物に行きました。バスのステップに乗るとき、気遣って手を引いてくださいました。帰りには、荷物を持つと言って聞かない私に、私にでも持てる軽い物を渡してくださいました。あれは、幼いゆえに荷物持ちができないことに対して罪悪感を抱かないように、けれど重いものは持たせないようにと思って、そうしてくださったのだと、随分後になって気付きました」

「最後の日、寝付けない私と話をして下さいました。あなたに会いたくて無理に約束をしようとした私を、笑顔で受け入れてくださいました」

「月宿高校に入学してから、あなたと再会しました。あなたは木から落ちかけた私の真下に来て、助けてくださいました」

「気持ちを伝えた私を、ただ無闇に拒絶したりせず、一つひとつ言葉にして、お断りしてくださいました。その後、私があなたの後をついて回っても、あなたは私をはねのけることはなかった。それは、私の気持ちを傷つけないように、そうして下さったのでしょう」

 そして風羽はようやく微笑んでみせる。

「私はあなたの優しいところをたくさん知っています。そしてあなたに会うために月宿に来て、今のあなたを知って、いっそう好きになりました。変わらないところは今まで通り好きで、変わっていくところや私の知らないところは、これから好きになっていきたいと思っております」

 広瀬の反論の糸口を塞ぐように、彼女は言葉を続ける。彼女の想いは、ただ幼い頃の憧れの延長ではなかったのだ。

「覚えています。知っていますだから、私はあなたが好きなのです。優希くん」

 真っ直ぐに広瀬を見つめる風羽に、広瀬は何も言い返せなかった。呼吸を置いて、何も事情を話せない自分に言える言葉が、一つしかないことに気付く。頑なで、ただ頭ごなしに彼女を拒絶する幼い台詞だった。

「そうだとしても、俺は君を好きにならない。何があっても、絶対に」

 本当は事情を言えないのではなく、言いたくなかっただけだと、広瀬が気付いたのは少しだけ後の話だ。

「それでは私も、先生が振り向いてくださるまで諦めません。絶対に。……根比べなら自信があります。負けません」

 自信たっぷりに言う彼女に、広瀬は今度こそ何も言葉が見つからずに黙り込んだ。

「先生、知らなかったのですか?」
「……何を?」
「恋する乙女は無敵なのです」

 広瀬はしばらくの後、コンロの火をつけて味噌汁を温めなおした。夕食にしようか、と風羽に声をかけると、風羽は素直に頷いておかずを談話室に運び出す。

 広瀬がその後ろ姿を見送ると、ずきりと心臓辺りが痛むのを感じた。そろそろ、時期のようだ。今夜は月宿池に向かわなくてはいけない。