「お待ちしておりました」
「あれ、菅野さん?」
「お帰りなさいませ」
「ただいま。どうしたの? もうこんな時間なのに」

 夜の十時を周り、塾から帰ってきて一息吐くと、風羽が一人で談話室にちょこんと座っていた。パジャマはすっかり冬のものに変わっているが、上着を羽織っていないので寒そうに見える。広瀬は着ていたコートを脱ぐと、それを風羽の肩にかけた。

「おお、ありがとうございます」
「どうしたの? 待ってたって」
「兼子さんと芳子さんに、今日がバレンタインという日だと教わりましたので、広瀬くんをお待ちしておりました」
「ああ、そもそもバレンタインを知らなかったんだ……」

 広瀬も過剰にバレンタインを期待していた訳ではないが、朝の朝食のときも昼の放送部でも彼女が全く気にしている様子が無かったので、てっきり興味が無いのだと思っていた。ただ知らなかっただけと知り、広瀬は少しだけほっとする。

 お納め下さい、と渡されたチョコレートの箱を受け取って、ありがとう、と告げる。出来る限り平然とした様子を装いたかったけれど、こうして実際の物を渡されると口元が緩んでしまった。しかも生憎と、そのだらしない口元を隠せるコートは彼女に貸してしまっている。

「かなり嬉しい。ありがとう」
「広瀬くんに喜んでいただけたなら、私も嬉しいです」

 広瀬のコートに腕を通して、風羽は微笑む。広瀬はいっそう頬が緩んでにやけてしまうのを感じた。

 風羽は広瀬のコートをすっかり着てしまうと目をぱちくりさせ、腕を水平に伸ばして首を傾げた。

「どうしたの?」
「いえ、袖が長いな、と思いまして」
「それ、男性用Mサイズだからね」
「ふむ。確かに肩幅や着丈もやや大きいようです」
「一応男ですから。君より背も高いし」

 寒そうな格好を心配してコートを貸したつもりだったが、袖の長さをしきりに気にする彼女は随分と可愛らしい。風羽と広瀬の身長差は十センチ程だが、ぶかぶかのコートを羽織っている風羽はいつもより小さく見えた。袖口からちらちらと覗く細い指先が気になって、つい目で追ってしまう。

「今食べたいけど、さすがに遅いかな」

 話題を逸らすように手に持ったチョコレートの箱を持ち上げてみせると、風羽は真面目な顔で「いけません」と首を振る。

「広瀬くんはまだお夕飯も食べていらっしゃらないです。まずはそちらをどうぞ」
「……うん、そうだね。じゃあ明日一緒に食べようか」
「? ですが、それは広瀬くんに差し上げたチョコレートです。私が食べる訳には参りません」
「俺は君が一緒に食べてくれたら嬉しいよ。ご飯だって、みんなと一緒に食べたら美味しいって言うじゃない?」
「……成る程。ではお言葉に甘えさせて頂きます」

 彼女の返事に広瀬は頷くと、チョコレートの箱を机の上にそっと置いた。

「俺、自分のご飯温めて来るよ。菅野さんは先に寝てて」
「お手伝いします」
「え、いいよいいよ。待っててくれただけで嬉しかったし、その格好だと冷えるし」
「コートをお借りしているので平気です。それに、私が広瀬くんと一緒にいたいのです」

 当たり前のようにそう言われて、広瀬は顔が熱くなるのを感じた。彼女は相変わらずこんな風に、真っ直ぐな愛情でもって広瀬を困らせる。

「広瀬くんが嫌でなければご一緒させて下さい」
「……分かった。俺の負けです」

 これ以上何か言われたら自分の理性が持たない気がして、広瀬は早々にお手上げのポーズをする。

「では私はお味噌汁をご用意します」

 連れ立って台所に向かいながら、広瀬は溜め息を吐いた。広瀬はいつまでたっても彼女に適う気がしない。こうして彼女の言葉に何度も一気一憂させられて、広瀬の感情は休まることがなかった。

 けれど今は、それも心地良いと考えられるようになっていた。そうやって自分を揺さぶられることで、広瀬は少しずつ変化し色々なものに対する柔軟性を得ていく。それは広瀬の怖がっていた変化のはずだったが、今はそれを前向きに捉えられるようになっていた。

(何事も捉え方次第、ってことなのかな)

 価値観の違いではなく、捉え方の違い。そう考えられるようになっただけで、広瀬は十分に変化してきたのだろうと思う。

「何か俺、最近君に似てきた気がする」
「そうですか?」
「うん。考え方とか、ものの捉え方とか」
「……そう言えば」
「ん?」
「以前クラスで喧嘩があったとき、広瀬くんならどう言うだろうか、と最初に考えたのです。以前ならそんな事など考えず、ただ仲裁に入り込んでいたはずなのですが」

 広瀬くんの影響ですね、と言いながら、風羽は味噌汁の入った手鍋を緩くかき回す。

「長年連れ添った夫婦は似てくると言いますが、わずか半年でこれならば、我らは数年でそっくりになってしまいますね」

 広瀬は風羽の言葉に容易に頷くことも出来ず、思考が停止してしまう。こんな風に、風羽はごく当たり前のように広瀬と共にある未来を語るのだ。だからこそ適わない、と思う。

 広瀬が固まっていると、風羽は温め終わった味噌汁をお碗に移す。それから何も言えずにいる広瀬に向かって悲しそうな顔をした。

「ご不満ですか?」

 広瀬はようやく体を動かすと、固くなった筋肉を伸ばしてそっと風羽を抱き寄せる。

「幸せ過ぎて倒れそう」
「何と、それは大変です。私が支えて差し上げます」