「廊下、寒いから……部屋入って、座って」 風羽は広瀬のまぶたを覆っていた手を下ろすと、その言葉に頷いた。広瀬は目を開けて正面の風羽を見つめる。彼女はいつもと変わりないように見えた。けれど確かに先ほどの風羽の声は震えていたし、その手は強ばっていた。それは広瀬に見えなかった、否、広瀬が見ようとしなかった風羽の弱さの一面だった。 広瀬は、自分の生き方を否定したくなかった。それだけ過去積み上げてきた自分に執着があった。崩されることが怖かったから、正直であることの眩しさから目を逸らした。それが彼女を突き放すことだと、ちゃんと気が付いていたくせに。 (ずっと我慢してた。正直に生きてきたかった。言いたいことを言ってしたいことをするような生き方に憧れていた) かつて広瀬は風羽にそう告げたことがある。それは人よりほんの少し聡い広瀬が出来なかった生き方だった。物事に滞りのないように、円滑に進められるように。そして何より、自分を傷つけられないように。 「ごめん」 クッションに腰掛けた風羽の隣に座って、広瀬が口にしたのは謝罪の言葉だった。 「さっき、君にひどいことを言ったと思う。ごめん、菅野さん」 「広瀬くん」 「ごめんね……」 顔を俯けて謝る広瀬の手を、そっと風羽は包み込む。広瀬が顔を上げると彼女は微笑んでいた。言葉にされるよりも明確に、彼女は広瀬を許してくれる。受け入れようとしてくれる。 「君の、そう言う真っ直ぐさが、俺には眩しくて仕方ないよ」 本音を隠していたいのに、これ以上自分を晒して彼女に嫌われたくないのに、押し込めた感情は風羽に触れることで一気に溶け出してなだれていく。 「正直でいることは、怖いよ。素の自分を晒すことで誰かに幻滅されるのが嫌だ。弱くて卑屈で、偽善者な自分を見透かされるのが嫌だ。それくらいなら、取り繕った自分でいる方が何倍も楽だった。だから、俺の取り繕った部分を、あまりにも簡単に引き剥がす君から逃げたかった」 広瀬の口からこぼれていく言葉に、風羽は耳を傾けている。彼女は話を聞いてくれる。だから話してしまうのだ。自分を晒してしまうのだ。広瀬が一番怖がる行為を、彼女は傍にいるだけで誘発する。 「君といると呼吸が楽になる。でも同じだけ眩しさに目眩がする。俺にとって、君は真っ直ぐさの象徴だった」 傍にいたい。風羽が好きだ。そしてその真っ直ぐさに憧れる。けれど、それでも。 「俺は弱い。弱いから、君の真っ直ぐな生き方を受け入れられない。自分を簡単に変えられない」 どれだけ彼女が好きでも、その生き方に憧れても、広瀬はこれまでの自分を裏切れなかった。だから苦しんでいる。悩んでいる。自分の行き先が曖昧になってしまっている今を、乗り越えられる術を探している。 「それは、優しさではありませんか」 ぽつり、と風羽が呟く。 「私は、広瀬くんのおっしゃるその弱さを、優しさに感じるのです」 広瀬が風羽の言葉の意味を計りかねていると、風羽は少しだけ考えて、続けた。 「正直であることは、時折傍若無人と繋がります。広瀬くんは私が真っ直ぐだとおっしゃいますが、そのせいで誰かを傷つけたり追いつめたりすることは、少なからずあると思うのです。例えば今、私があなたの傍にいることで、あなたを悩む苦しみに向き合わせてしまっているように」 風羽が広瀬に近付かなければ、広瀬は自分の生き方に心を悩ませずにいられた。生き方に正解も不正解も無いと風羽は思っているし、意見が食い違うのはままあることだ。 「そんなの、ただ俺が弱いだけで……」 「広瀬くんはそうやって、私を守ってくださいます。自分が弱いからと、そう言うことで、私の、ややもすると愚直になりかねない真っ直ぐさを守ろうとしてくださる」 広瀬の生き方は弱さではない。周りの見えない真っ直ぐさを受け止める優しさなのだ。 「だから、私にはあなたのおっしゃる弱さが、優しさに写るのです」 風羽は広瀬にぶつかることから知らない。好きだから追い掛けることしかできない。広瀬が離れていくとき、その気持ちや優しさを気遣って距離を置くことができなかった。風羽は広瀬が好きで、誰よりも近くにいたかった。 「私は、あなたを苦しめてしまうと分かっていても、……それでも、広瀬くんが好きなのです」 何度も何度も、風羽は広瀬に好きだと伝えてきた。それはただそうすることしか知らなかったからだ。 「あなたの持つ優しさを、私はもっと傍で感じたい。どんな広瀬くんも、私には広瀬くんなのです。もっともっと私はあなたを知りたい」 風羽は、ただ広瀬に伝えることしか知らない。 「好きです。広瀬くん」 |