自分の生き方、と言うと少し大袈裟かもしれない。広瀬はまだ十五年しか生きていないし、人生を達観するにはまだ早い。だが、されど十五年でもある。なかなか人に本心を打ち明けられない難儀な質と、ほんの少し周りを見回せる聡さと、そうして読み取った雰囲気に沿って動けるだけの器用さは、少しずつ広瀬というものを形成していって、流動できないものにしていった。広瀬は器用で、同時に不器用だった。一つ一つ確認するように積み上げてきた自分の価値観を、簡単に崩したり改めたりすることができなかった。

 広瀬は自分の恋心に従うよりも、これまでの自分の価値観や生き方を守ることを選んだ。頑なだとしても、弱いとしても、今までの生き方を変えることは広瀬にとってあまりにもリスキーに感じられたからだ。だから広瀬は風羽と別れた。広瀬は風羽よりも自分のプライドを優先した。

 けれど別れてからも、広瀬は風羽のことが好きだった。気付けば風羽を目で追って姿を探している。そして風羽も同じように広瀬を探しているから、しょっちゅう目が合ってしまう。そのたびに彼女が嬉しそうに微笑むせいで広瀬の心臓は休まる暇がなかった。

 彼女がいると、広瀬は頑なな自分がほどけて生きやすくなるのを感じた。けれどそれと同時に、積み上げてきた自分自身がぐらぐらと揺さぶられることにも気付いていた。だから、広瀬は彼女を突き放したのだ。

(これは後悔なのか、ただの確認なのか……。でも俺は、彼女みたいに真っ直ぐに生きることは、難しいよ)

「広瀬くん」

 風呂上がり、葉村に借りたファッション誌をぼんやりと眺めていると、控えめなノックが聞こえた。雑誌をベッドの上に置いてから扉を開けると、風羽がいた。

「忘れ物です。脱衣場の棚の隙間に落ちておりました」

 手渡されたのはスポーツタオルだった。有名なスポーツメーカーのロゴが隅に刺繍してあるだけのシンプルなタオルだ。

「あれ、忘れてた? と言うか、良く俺のだって分かったね」
「以前首からかけていらっしゃったのを見かけたことがあります。記憶力は良い方ですので、覚えておりました」
「そっか、ありがとう」
「礼には及びません。私も広瀬くんの部屋を訪れることができて嬉しいです」
「君はまたそう言うこと言う……」
「事実を述べたまでです」
「はいはい」
「広瀬くん」
「何?」
「好きです。私と付き合ってください」
「……そう言うこと言うー……」

 あまりにも真っ直ぐで脈絡の無い告白に、広瀬はがっくりとうなだれる。風羽は事あるごとに広瀬を好きだという。あまりにも乱発されるので希少価値がどんどん薄れていっている気がした。

「駄目だよ。俺は、菅野さんと付き合えるような真っ直ぐな人間じゃない」

 いっそ「君のことなんか好きじゃない」と言えれば良かったのかもしれない。けれど広瀬はその嘘を吐くことだけは出来なかった。そう言ってしまうことで、本当に彼女が広瀬を諦めてしまうことを恐れてもいた。

(君が俺を好きでいることに困っているくせに、君が俺を嫌いになることが怖い)
(君の持つ真っ直ぐさに憧れながら、今までの生き方を変えられない)
(勝手だ)

 広瀬はひねくれているし、こう言ったたくさんの矛盾を抱えている。ただ彼女に打ち明けるだけで全てが解決すればいいのに、そうも行かない。自我の強さが何より厄介だと知っているのに、その解決方法が分からない。

「真っ直ぐでなければいけませんか?」

 広瀬の思考を打ち消すように、風羽は凜とした声で言う。広瀬は風羽の言葉の意味が掴めずに首を傾げた。

「もし仮に、あなたが言うように私が真っ直ぐだとして、真っ直ぐな人間は必ず真っ直ぐな人間と寄り添わなくてはいけないのですか? 寧ろ、お互い違う性質だからこそ、欠点を補い合う理想的な関係を築けると思います」
「……恋は盲目、って言葉もあるよ。君が俺を好きだと思うからそう考えてるだけで、冷静な判断ができなくなってるのかもしれない」

 言ってしまってから、広瀬は口を噤んで後悔した。それは風羽の真っ直ぐな好意を、広瀬を好きだという想いを、まるごと疑う言葉だった。本心ではない。臆することなく広瀬を好きだという彼女に向き合うのが怖くて、逃げ道をこじ開けたくて発しただけだ。けれどそんなことを伝えても言い訳にしかならない。広瀬は風羽を傷つける言葉を言ったのだ。

 広瀬はそれ以上何も言うことができずに、黙り込んだ。風羽は少しだけ俯いていて、その表情を伺うことができない。

「目が、」

 ぽつりと自分が零した言葉を掬うように、風羽は顔を上げた。そして手を伸ばすと広瀬のまぶたをそっと覆った。驚いて一歩後ずさる広瀬を追って、風羽は一歩を踏み込む。

「目が、見えなければ」

 彼女がしたいことに気付いて、広瀬はその場に留まると促されるままに目を閉じた。たちまちに暗くなる世界の中で、風羽の声だけがはっきりと広瀬の耳に届く。

「目が見えなければ、聴覚や触覚が鋭くなるそうです。視覚情報が無くなることにより、その他の器官が貪欲に他の情報を体に取り入れようとする」

 暗い世界で、広瀬は目の前の彼女のかけらを集めようとする。凜とした声、柔らかな息遣い、まぶたに押し付けられたぬるい手のひら。そこにいるのに見えない風羽を求めて、広瀬は視覚以外の全ての感覚を研ぎ澄ませる。

「盲目になって、理性や常識が見えなくなってしまうなら、私は私の感情の全てで広瀬くんを知ります。あなたと別れてからも、私はずっとあなたを見ていました。その上で私は今も、広瀬くんを好きでいるのです」

 そして広瀬は気付いてしまう。凜としていたはずの声の僅かな震えに、整わない崩れた息遣いに、固く強張った彼女の手のひらに。

「お願いします。そんな言葉で、私の気持ちを、あなたに恋をする私を、まるで」

 広瀬は忘れていたのだ。かつて彼女に片思いをしていたとき、どれだけ自分が切なさに苦しめられていたのかを。

「まるでがらくたのように、扱わないでください」

 彼女を見ていなかったのは、広瀬の方だった。