「俺が月蛙寮に?」
「ああ、今回の工事、前より大規模になるそうなんだ。そのせいで外部の施設で預かる寮生の数が多くて、教師が足らないんだよ。だからお前には月蛙寮の寮監を頼みたい。食事なら、平日は家政婦さんを雇うことになってるから安心してくれ」
「分かりました。人が足りないなら仕方ないですね」
「悪いな」

 それが新任式直後の米原とのやり取りで、広瀬は自分の予感が当たっていたことに溜め息を吐いた。もう一つくらい何か起こってもおかしくない。そう思いながら月蛙寮に寝泊まりする予定の寮生のリストを受け取って目を通すと、

「……やっぱり……」

 一番上に書かれた名前には、随分と見覚えがあった。




「元々月蛙寮は古民家で、俺達の世代で似たようなことがあった時にも貸してもらったことがあるんだ。まあ、ちょっと不便なところはあるけど、過ごしやすくて良いところだよ」
「ってことは、先生も月蛙寮にいたことがあるんですか?」
「そういうこと」

 月蛙寮で預かる生徒は全部で六人だった。広瀬は生徒の一人と話をしながら、ちらりと後ろを向く。広瀬が最も懸念していた彼女は、同じ寮で暮らすことになった女生徒と仲良く話し込んでいた。

「へえ、菅野さんは架牡蠣出身なんだ」
「はい。兼子さんは?」
「私は南青瀬ってとこ。こっちのヨッシー……、芳子も同じだよ」
「仲良くしてね! 風羽ちゃん」
「こちらこそ宜しくお願い致します。芳子さん」

 昔会った時よりもいっそう固くなった口調に思わず笑ってしまいそうになる。それにしても、広瀬の風羽に対する心配はどうやら不要だったようだ。彼女は広瀬が寮監だと知っても少し目を丸くしただけで、月蛙寮までの道のりでは必要以上に広瀬に接触する事はなかった。昔からしっかりしていたし、今もきちんと「教師」と「生徒」という立場をわきまえているようだ。

 寮に着くと、かつての広瀬達と同じように「探索をしよう」と一人の寮生が言い出した。それに賛同するように皆が立ち上がるのを見送ってから、広瀬は台所へ向かった。

(さてと、買い出しにも行かないとな……)

 家政婦は明日から来ることになっているから、今日は広瀬が夕飯を作らなくてはいけない。広瀬も料理が出来ない訳ではないが、さすがに六人もの生徒の栄養管理を兼ねたメニューを提供するにはレパートリーが足りない。改めて、広瀬が生徒のとき寮監を務めていた米原はすごかったのだと感じる。

(時間も無いし、今日はカレーで良いかな。あとはサラダと、もう一品……。男子もいるから、自由につまめる唐揚げとかで。あ、油買わないと)

「広瀬先生」

 後ろからかけられた声に驚いて振り向くと、制服から私服に着替えた風羽が立っていた。

「……菅野さん」

 生徒を呼ぶに相応しい呼称を探し当てるまで、少しだけ時間が必要だった。以前の「優希くん」「風羽ちゃん」に比べると距離感があるが、その分気持ちが引き締まった。彼女は「生徒」として広瀬の前に立っているのだ。

「寮内探索に行ったんじゃなかったの?」
「いえ、そのつもりでしたが、もしや晩御飯の準備をなさるのかと思い、お手伝いに参りました」
「ありがとう。でも準備はまだ先だよ。買い出しが先だから」
「おお、ではお供いたします」
「え?」
「七人分の食糧を一人で運ぶのは大変でしょう。体力には自信がありますので、お手伝い致します」

 広瀬が「重いだろうから良い」と断ろうとするのを遮るように、風羽は「……実は」と付け足した。

「実家からシャンプーを持ってくるのを忘れたので、自分の買い物にも行きたいのです。……まだこちらの地理には詳しくないため、商店街までの道が分からず困っておりました」

 そう言われると、広瀬も断ることができない。風羽は自分のうっかりさを恥じてか、俯いて照れくさそうにしていた。

「……分かった。じゃあ、一緒に行こうか」

 再会から数えて二度目の彼女との会話は、想像以上にスムーズに始まった。彼女は広瀬を「広瀬先生」と呼ぶし、広瀬も彼女を「菅野さん」と呼ぶ。

(もしかして、入学式前のアレって白昼夢だったとかかな……)

 思わずそう思ってしまうくらいに、風羽の態度は普通で、今朝の出来事の名残を全く感じさせなかった。だから広瀬も、本当に彼女が自分のことを覚えているのかどうかが分からなくなって、核心を突くようなことを聞くことができなかった。