「危ないよ!」
「木登りは得意なので平気です」
「いや、でも!」
「こちらの猫をお助けしましたらすぐに降りますので、ご心配なく」

 そこには数人の新入生が、木の上を見上げて慌てていた。広瀬の位置からは木の葉に紛れて顔は見えないが、スカートの裾からすらりと伸びた健康的な足が、太い枝に絡まっているのがかろうじて見えた。何とも無防備だ。校則で、スカートの下にズボンなどを着用することが禁止されていると言うのに。

「おーい、木に登ってる子、大丈夫?」

 広瀬が念の為に声をかけると、すぐに木の上から返事が降ってきた。凛とした涼やかな声だった。

「平気です。すぐに降りますので」

 しかしその言葉に反して、広瀬の目の前で、枝に絡んだ足が安定感を失う。木の葉に隠れていた体がぐらりと傾いて姿を現し、落下する。きゃあ、と周囲から叫び声が上がる。

「っ、危ない!」

 思わず手を伸ばして、少女の落下位置に体を滑り込ませる。抱き留めることは出来ないだろうが、クッションくらいにはなれるだろう。

 どさ、と落ちてきた体を受け止めると、想像よりも軽かった。木に登って平気なのだから相応の軽さだろうとは思っていたが、それにしても軽い。

「……君、大丈夫?」

 広瀬の上でもぞもぞと少女が動く。髪の上に載った葉を払ってやると、ようやく少女は顔を上げた。彼女の腕の中では、なあん、と猫が苦しげに声を上げる。

「申し訳ありません、ご迷惑をおかけしました」

 少女を見て、広瀬は目を丸くした。大きなくりくりとした目は腕の中で暴れる猫を追っていて、まだ広瀬を見てはいない。

「……え?」

 思わず名前を呼んだりしなかったことを褒めてほしい。広瀬はぽかんと口を開けた。ぼんやりとした記憶を辿ると、一人の少女が広瀬の脳裏に浮かぶ。

(この子は、)

 八歳の頃を知っていると、真新しいセーラー服に随分違和感を覚えた。

(……風羽ちゃんだ)

 広瀬はぐっと気持ちを落ち着ける。動揺を表に出してしまえば不審に思われてしまう。もう会うことは無いと思っていた。きっとすれ違っても、彼女は広瀬を通り過ぎ、広瀬だけが彼女を振り返ることになるだろうと。一体、何の縁だろうか。こうして面と向かって再会する羽目になるとは。

 しかし、彼女は「新入生」で、広瀬は「教師」だ。今広瀬が不審な態度を見せるのは良くない。落ちた風羽と受け止めた広瀬を心配している周りの目もあるため、努めて冷静さを保つ。

「でも、危ないから木登りは止めた方がいいよ。それにスカートだし、気をつけないと」

 少しぎこちなくなってしまったが、「先生」ならおかしくない台詞だろう。風羽が顔を上げて、広瀬を見る。そして丸い目が大きく開かれ、驚きで口をぽかんと開けた。つい先ほどの広瀬と同じように。

「……見つけました」

 けれどすぐにその表情は嬉しさに満ちた。ふわりと花が咲くような笑顔を向けられて、広瀬は戸惑う。

「あなたに会いに来たのです」

 どうして、という言葉を発する前に、風羽の腕が伸びて広瀬の首に回る。強く抱きつかれると、シャンプーの香りが鼻孔をくすぐった。

「約束通り、一緒に暮らしましょう!」

 放たれた一言があまりにも衝撃的で、広瀬は固まった。彼女は腕から抜け出た猫を追うこともせず、広瀬に抱きついて離れなかった。