しばらく話すうちに、風羽は眠そうに瞼を擦りだした。広瀬がそろそろ話すのはやめて寝ようかと目を閉じると、右手を軽く引っ張られる。ぱちりと目を開いて風羽を見ると、彼女はうとうととしながらも広瀬を見ていた。

「帰ってしまうのですか」

 夢うつつの風羽から放たれた言葉にはどこか非難の色がある。小さな手が広瀬の指をきゅっと掴んで、眠そうに伏せられた目が寂しいのだと訴えてくる。

「そうだね、一週間だけの予定だから」
「……私はもっと、優希くんといたい」

 広瀬には、小さなその手を握り替えしてやることしかできなかった。広瀬は月宿に戻らなくては行けない。広瀬はもう、月宿以外の帰る場所を失ってしまったからだ。

「ありがとう。でも、俺は月宿を離れられないから」
「では、私が月宿へ行きます」
「え?」

 風羽は少しだけ体を起こして、名案だとばかりに広瀬の手を握る力を強くした。眠そうな目を無理に開いて、風羽は広瀬に言う。

「会いに行きます。優希くんに」
「でも」
「行きます。絶対に」

 あまりにも真剣な目をして風羽がそう言うものだから、広瀬は少しだけ間を置いてから、ため息を吐く。一週間も一緒にいたのだから、彼女の生来の頑固さは十分に知っている。広瀬が何か言おうとしても、彼女はきっと聞かないだろう。

 どうせ、彼女は全て忘れてしまうのだ。出会ってすぐ広瀬のそばで泣いたことも、一緒に山で見た美しい夕焼けも、たくさんの些細な話も、この約束も、全て。だから広瀬は、彼女の約束を受け取ることにした。

「……分かった。俺は大学を出たら、月宿で一人暮らしする予定なんだ。そこにおいで。一緒に暮らそうよ」
「行きます。必ず行きます。優希くんに、会いに」

 ただ風羽を安心させるためだけに、広瀬は彼女と約束をした。一緒に暮らそうだなんて大嘘だ。彼女が覚えていなければ意味を成さない、虚しい約束だった。けれど今目の前にいる少女が穏やかに眠れるなら、どんなに虚しさを感じても構わない。

「待ってるよ。ほら、もう寝よう? 夜更かしは良くないよ」
「眠ってしまったら、優希くんがいなくなってしまいます。まだ起きていたいです」
「大丈夫だよ。ここにいる。朝は俺が起こしてあげる。約束」
「ゆびきりげんまんです」
「うん。ほら、指切り」

 また一つ嘘を重ねるために、広瀬は繋いだ手とは逆の手の小指を差し出した。風羽の柔らかな小指が広瀬の小指に絡み、風羽は嬉しそうに微笑んだ。

「ゆびきーりげんまん。うそつーいた、ら、……」

 約束の途中で、風羽の目がとろんと閉じていく。指切りの文句を唱えられなくなって、彼女の小指がするりと抜け落ちてしまう。重力に従って風羽の手が布団に沈んで、その目が閉じる。広瀬が耳をすませると小さな寝息が聞こえた。

「……寝ちゃった。まあ、いいか。お休み、風羽ちゃん」

 それから、ごめんね。

「さよなら」

 もう聞こえないだろうお別れの言葉を口にして、広瀬は苦く笑った。起こしてあげる約束を守れなくてごめんね。一緒に暮らそうだなんて嘘を言ってごめんね。その代わり、君が俺を忘れてしまっても、俺が覚えているから。君と架牡蠣で見て感じた全てを、俺が覚えているから。

 広瀬は夜明け前までの時間、眠ることが出来なかった。千木良の指定した時間になると彼女と繋いでいた手を離し、音を立てないように荷物を抱える。気持ちよさそうに寝息を立てる風羽の頬にかかる髪をそっと払ってやってから、部屋を後にした。最後に閉じた部屋の扉を見つめて、もう一度、今度は自分のためにその言葉を呟いた。

「さよなら、風羽ちゃん」