風呂から上がってもなかなか寝付けず、布団の上で文庫を広げていた広瀬の元に、アルパカの抱き枕を抱えた風羽がやってきた。

「どうしたの?」

 どこか恥ずかしそうに俯く風羽を手招きすると、彼女はアルパカを抱き締めて表情を隠したまま、襖を後ろ手に閉めてから広瀬の布団の横にちょこんと座った。

「もしかして眠れない?」

 寝つきは良い方だと以前言っていたはずだと思いながらそう問い掛けると、彼女は黙ってこくりと頷いた。

「……ここまでねむれなかった日は、今まで一度もなかったのです」

 どうすれば眠れるのでしょうか、と心底困った様子で風羽が言うものだから、広瀬はううんと唸った。広瀬はそれ程寝つきの良い方ではないから、眠れないときはこうして本を読むことが多い。しかし生憎と広瀬が持っている心理学の本は、八歳の少女には難しすぎるだろう。

「少し、話でもしようか。話してたら眠くなるかもしれないし」
「良いのですか?」
「俺も眠れなくて困ってたんだよ」

 ぽんぽんと横を叩くと、風羽はアルパカの抱き枕を抱えたまま横になった。広瀬はタオルケットの半分を少女に掛けてやってから、蛍光灯の紐にを引っ張る。全て消して真っ暗になってしまうとお互いの顔が見えないから、豆電球一つだけは残しておいた。

「別に眠ろうと焦らなくていいから、のんびり話そうか」
「はい」
「そう言えば、夏休みの課題はどう?」
「順調です。毎日目標を立てて進めています」
「そっか、偉いね」
「優希くんはどうなのですか?」
「俺? 大体終わったよ」
「なんと! 早いのですね」
「割と前半にまとめてやる方なんだ」
「その方が良いのでしょうか?」
「いや、自分に合った方法が一番だよ。俺は何となく、後半に追われてやるのが苦手なんだ。だから気付いたら進めてる」
「そうなのですか」

 広瀬と話すうちに、風羽はアルパカの抱き枕に埋めていた顔を上げて、豆電球の明かりの下で広瀬の顔をじっと見ていた。その視線に気付き、広瀬はそっと風羽に微笑む。

「どうしたの?」
「優希くんは、ねむれない日はどうしているのですか?」
「俺? うーん、本を読むことが多いかな」
「読書家です」
「読書家ってほどでもないよ。逆に言うと、眠れないときくらいにしか読まないから」
「では、優希くんは何の本を読んでいたのですか?」
「うーん、心理学、って言って分かるかな」

 広瀬の持っているものは、高校生でも読める易しい入門書だ。図書館で見つけて気まぐれに借りてはみたものの、鞄に入れっぱなしになっていた。

「しんりがく……?」
「そうだな……。イソップ童話の『すっぱいブドウ』の話、知ってる?」

 一匹のキツネが木に実ったブドウを取ろうと奮闘するも結局叶わず、「あのブドウはすっぱいに違いない」と諦めてしまう話だ。

 所謂「負け惜しみ」なのだが、人間はそうやって、理想と現実の隙間を自分に都合の良い理屈で埋めようとする傾向がある。心理学ではその行動を「合理化」と呼ぶ。しかし幼い風羽にそこまで伝わるか分からなかったから、広瀬は童話の話をするだけに留めておいた。

「ブドウがすっぱいかどうかは、食べなくては分かりません」
「そうだね。でもキツネは手が届かなくて、悔しくてそう思うことにしたんだ。仕方ないんだ、って。そういう風に、人間の行動を分析して学問にしたのが、心理学なんだよ」
「……」
「ああ、ごめんね。君には難しかったかな。別の話にしよっか」
「優希くん」
「ん? 何?」
「お尋ねしたいのですが」
「どうぞ」
「ある一人の人に、頭をなでてもらいたい、ほめてもらいたいと思うのは、しんりがく、では、何と呼ぶのでしょうか」

 広瀬は首を傾げる。風羽は真剣な瞳でこちらを見ていて、広瀬は曖昧な返答は許されそうにないな、と感じた。風羽はぎゅっとアルパカのぬいぐるみを抱き締めた。豆電球の小さな明かりの下で、幼い少女はぽつりぽつりと言葉を続ける。

「手をつないでほしい、と思うのです。困っているところを見ると、力になりたいと思ってしまいます。笑った顔を見ると、胸が温かくなって、同じくらい苦しくなります。その人とさようならをすることを考えると、さびしくてたまらないのです。……これは、何と呼べば、良いのでしょうか」

 優希くん、と呼び掛けられて、広瀬は苦く笑った。教えるべきか、黙っているべきか、ほんの少し迷ってから、広瀬はそっと少女のまるい頭を撫でる。

「君は、その人のことが好きなんだね」

 何だか、妹を取られてしまった気分だった。世の中の妹を持つ兄は、こんな気持ちで妹の初恋を見守るのだろうか。

「すき……?」

 ぱちくりとまばたきをして、少女はその言葉を繰り返す。その言葉の意味を探るように、もう一度、すき、と言った。

「と言っても、当たってるか分かんないけど。俺が、今の風羽ちゃんを見て、そう思っただけだから」
「……」

 悩むように考え込み、風羽は俯いて目を閉じた。広瀬はそっと彼女の頭から手を離す。すると風羽はぱちりと目を開けて、恥ずかしそうに微笑んだ。ふにゃりと柔らかな頬が緩んで、その笑顔のまま、広瀬を見つめていた。

「合点がいきました。私は、きっとその方のことがすきなのだと思います」

 感情に名前をつけて、風羽は柔らかく穏やかに微笑む。幼い少女に似合わない、ほんのちょっぴり大人っぽい笑顔を見ると、広瀬は尚更複雑な気分だった。小学校にでも好きな男の子がいるのだろうか。それはきっと広瀬が知らない相手だ。そしてこれからも知ることはないだろう。

「そっか、叶うといいね」

 広瀬がそう言うと、少女は目を丸くした。ぬいぐるみ越しに広瀬を見つめてから、目を逸らして、そうですね、と答える。何となく寂しげなのは、その少年のことを思い出しているからだろうか。この一週間、兄のような気持ちで接してきた広瀬としては、少女の恋を手放しで歓迎することができなかった。