山妖譚〜S'ai〜 颯花の章

年が明けてからも、凍えるようなみぞれや湿った雪が何度か降った。
年神がもたらした湧き水は凍らなかったが、流れ出た小川の表面には薄い氷が張ったり、濡れた雪が積もったりした。
しかしひと月も過ぎると、陽射しには力が戻ってきた。陽だまりではかすかに太陽の匂いが感じられる。強い冷え込みや時折舞う小雪は冬のものだが、晴れた日の暖かな陽射しとやわらかな空気は確かに春を感じさせた。
冬の空と海を覆う鈍色も薄くなって、頭上には淡く白っぽい青空が広がっていた。ひっそりと暗く沈んでいた海は、明るい空の色を映して柔らかな青色に変化しながら穏やかに凪いでいる。

ザックスの山の禿げ具合は相変わらずだが、日がよく当たる斜面に埋めた木の実からは小さな芽が出始めていた。種の殻がかぶさったままのものも多くあるが、それでも日に日に少しずつ成長していた。
そして山の具現でもあるザックスはここ数日落ち着かない気持ちを抱えて過ごしていた。
体の中がザワザワする。
じっとしていると何だか全身が痒いような気がしてしまい、日のあるうちはほとんど山の中を走り回ったり、飛び跳ねたり、水を浴びたりして過ごしていた。
「おそらく山に埋めた実や種が芽吹こうとしているから、お前にもそれが感じられるんだろうな」
アンジールはそう言うが、理由がわかったからといって痒みやソワソワが緩和されるわけでもないので、ザックスは山の中をひたすら走り回ってまだ冷たい水をかぶり、日暮れとともに倒れるように眠り込む日々を送っていた。


ある日の朝早く、まだ暗いうちに石ころだらけの浜辺に来客があった。
波打ち際すれすれに立つのは、手をしっかりとつなぎあった幼児がふたり。
年の頃はまだ三、四歳といったところだろうか。
あどけない顔立ち。丸みを帯びたふくふくしい幼児独特の輪郭。紅く染まった頬が愛らしい。
揃いのようにも対のように見えるふんわりした衣服をゆったりとまとっている。
「さみしいやまだねえ」
「そうねえ」
ひとりがぱっと顔を輝かせると、繋いでいた手を離して両腕を大きく回した。
「ぶわーってしよう!」
それを聞いたもうひとりが同じように顔を輝かせ、手を打ち合わせてぴょんと飛び跳ねた。
「うん、ぶわーってしよう!」
「しようしよう!!」
「しゅっぱーつ!!」
ぴょんぴょん飛び跳ねながら喜んだふたりは、またしっかりと手をつなぎあい、山の中へ走り込んで行った。

日の出とともにザックスは起き出して、白い息を吐きながら山の頂上まで登って行った。夜の間にうっすらと下りた霜でひんやりと湿った磐座へ慎重に登り、海から上がってくる朝日を浴びる。
全身を包む空気は凛と冷たいが、朝の光を受けてほんのりとぬくもりを孕んでいる。
その光ごと吸い込むように何度か深呼吸すると、ザックスの全身に力が満ちた。
同時に身体の中で芽吹きの気配が動き出して、背中がぞわぞわと逆立つような心持ちになる。
ぐっと体を伸ばしてから飛び降りようとして、山の中を動いている影に気がついた。
「……んん?」
目を凝らしてみるが、よく見えない。
高い山ではないがまだ麓には朝日が届かない。おまけに、夜冷えた空気が海の上で薄い靄を作り出してぼんやりと霞んでいる。
眩しい光を浴びた後の目の錯覚かとも思えたが、一瞬だけ見えたその影がザックスはどうしても気になった。
根拠はない。勘のようなものだ。
獣でも泳ぎ着いたのか、はたまた先日の干支のような何かなのか。
見ているだけでは何もわからない。
ザックスは磐座を降りて影の正体を確かめるべく麓へ向けて走り出した。

まず浜辺まで駆け下りて行くと、動く影が見えるまで待つことにした。ソワソワと落ち着かないが、足踏みをしながら必死で待つ。
もし山の中にいるのが人間ならアンジールを呼んでこなくてはいけないと思う。
狗賓であるザックスは人間には見えないし、言葉も通じない。見えたとしてせいぜい山犬に見えるだけだ。
アンジール程度の霊力があれば、人間の前に人の姿で顕現することも可能だし、話をすることもできる。
ザックスが岩屋を出て来た時には、アンジールはまだ岩屋の中に居た。
塩を作るために海水を煮ていたのだ。ふたりとも食べ物は必要としないが、塩は供物にも清めに使えるのでたまに作る。
先に声だけでもかけてこようか。そう考えた時、山の中腹あたりの木の枝が不自然に揺れた。
弾かれたようにザックスが走り出す。動きたくてウズウズしていた全身が軽やかなバネのように動く。痒みに似た芽吹きの気配は億劫でもあったが、同時に身体の奥から湧き上がる力そのもののようだった。
冬の間、みぞれや雪が続くと岩屋にこもりきりになっていたのが嘘のようだ。
あっという間に木の枝が揺れたあたりへ到着したが、木の枝を揺らしたものの姿はない。高い木の枝が揺れたことを考えると、猿だろうかとも思う。ともかく、木の枝が動いた方向に歩き出す。頭上を気にしながら、振り返り振り返り歩いて行くと、木の根につまずいた。
「おっ……!?」
一歩踏み出して持ち堪えたと思った瞬間、ザックスの両肩と後頭部にズシンと重さがかかった。バランスを崩して前につんのめり、地面に倒れ臥すザックスの耳に、キャーという子どもの嬌声が届いた。土まみれの顔を上げたザックスの視界には、駆けていく子どもたちの後ろ姿が映る。
ザックスがつまずいた瞬間、木の上から飛び降りて来て両肩に足で乗り、おまけに手で後頭部をぱーんとはたいて行ったのだ。おかげでザックスは顔面で着地することになった。
「……こンの、悪ガキが!」
憤然とザックスは起き上がり、子どもたちの後を追った。


子どもたちはひらりひらりと飛ぶように走っていく。
きゃあきゃあと騒ぎながら繋いだ手はそのまま、体重を感じさせない動きで走り、時折驚くほどの跳躍力を見せて高い木の枝に飛び乗ってそのまま細い枝伝いに移動しては、怯む様子なくまた地面へ飛び降りて走って行く。
長めの袖や裾が風にひるがえり、はためく。
まるで何かの舞を舞っているようにも見える。そして、ザックスが全力で追いかけても隔たりは全く縮んでいかない。
枯れ木ばかりの山に無邪気な子どもたちの笑い声が響く。
不意にふたりが離れ、別々の方向に向けて走り始めた。
一瞬迷ったものの、ザックスは足の向いた方向の子どもを追いかけた。しかし、ひとりになって更に身軽になったのか、却ってスピードが上がったように見える。子どもの小さな背中がみるみる遠くなり、またひょいと木の上に飛び乗ったあたりで完全に見えなくなった。
「……!ああ!」
ザックスは舌打ちして立ち止まる。息が上がっている。
子どもの足に全力で走っても追いつけないなど、そんなことがあるものだろうか。
呼吸を整えながら、ふとザックスは思い当たる。
あの子らは、自分が見えていた。
だとしたら人間の子どもではない。
だとしたら、なんだ?
あんなに身軽で、怖いもの知らずで、あんなに足の速いもの。
「おーい。ポチー」
ザックスのすぐ背後から子どもの声がした。
ぎょっとして振り向くと、手の届きそうな場所に小さな頭がふたつ並んで、こっちを見上げている。
「もっとあそぼうよー!」
「ポチだらしないぞ!」
「……誰がポチだ誰が!!」
子どもたちはまたキャーと喜んで駆け出した。
完全に遊ばれている。
絶対つかまえてやる、とザックスは心に決めて再び子どもたちの後を追った。
細い木々の合間を、折れそうな枝から枝を、ゴツゴツした岩だらけの斜面を、崩れやすい砂地を、子どもたちは苦にもせずひらひらと素早く駆け抜けていく。
ザックスは何度も砂地に足を取られ、斜面で足を滑らせ、絡む枝に行く手を阻まれながら子どもたちを追った。


昇り立てだった太陽は中天に差し掛かって、山も海も明るく照らしている。色を濃くした青空に、元気で高い子どもたちの声が響いている。
疲れ知らずの子どもたちを追いかけるザックスは疲労困ぱいしていた。
一瞬も休まず動き続ける子どもたちは、どれだけ走っても追いつけない。いつまでたっても捕まらない。


ぐるぐると山腹を走り回っていた子どもたちが、ようやく頂上の磐座へ飛び乗って止まった。ずっと走り回り飛び回っていたのに、二人とも息ひとつ乱れていない。
磐座の下まで来たザックスは、膝をついて肩で息をしていた。
「やったー!いっちばーん!」
「ポチはビリな!」
きゃっきゃっと囃し立てる子どもたちに言い返す気力も体力も残っていないザックスは、ただ磐座の上を見上げ、そして驚いた顔を見せた。
その表情の変化に子どもたちが気づいた時、小さな体は同時にひょいと持ち上げられた。
ばさり、と風を切る大きな羽音。
「探していたのはこの子らか?」
子どもたちを小脇に抱えたアンジールが、後ろを振り返りながら尋ねる。
その背後から滑るように近づいて来たのは、隣の島の龍神の眷属だった。
「ああそうだ。すまない、世話をかけた」
「やだやだやだかえりたくない!!」
「まだあそぶのー!!」
子どもたちはアンジールの腕に抱えられたままじたばたと暴れるが、全く意に介されず龍神の眷属に渡された。
「……そいつら……あんたの子ども?」
ザックスがようやく磐座の上に登って息切れしつつそれだけ尋ねると、龍神の眷属は何を言っているんだというような顔をザックスに向けた。
「これは春だ。池や川の氷が溶けると生まれ、山や海や里に春をもたらす。仕事が終わったら春の女神のもとに戻さねばならんのだが、見ての通り遊び好きでな。ちょっと目を離した隙に脱走した」
「脱走……」
ぽかんとするザックスの全身から力が抜けた。子どもたちはしばらく暴れていたが、離してはもらえないことに気づいて大人しくなった。ただ、頬だけはぷくっとふくれている。
「ともかく世話をかけた。礼を言う」
「またあそぼーねー、ポチ!」
「あそびにくるまでいいこにしてろよ、ポチ!」
口々に勝手なことを言う子どもたちを抱えたまま、龍神の眷属は空の向こうへ消えた。

「……誰がポチだっつーの……」
ボヤくザックスにアンジールが苦笑しながら言葉を継いだ。
「朝あれが来て捜索に手を貸して欲しいと言われたんだ。海に入ったかもしれないと言われて海のほうを探してたんだが、まさかここに居たとはな」
「……朝からずーっとこの島の中走り回ってたよ」
「そうか。……大変だったろうが、後ろを向いてみろ」
アンジールの視線はザックスの背後に注がれている。
「え?」
つられたように振り返ったザックスは息を呑んだ。

枯れ木と土ばかりを見慣れた目に飛び込む、淡い緑。
「えっ……」
「春が走り回ったから、埋めた種が一気に芽吹いたな。木々の新芽も」
地面も木々の枝も、淡く柔らかな若芽の緑で包まれている。磐座付近の山頂だけではない、ずっと麓まで緑に包まれているのがわかる。
よく目を凝らして見れば、その淡い緑の中にごく小さな白い花をつけたハコベがある。ナズナがある。取り残されたような土色の場所からも、ツクシが土から頭を出している。
中天高くから差し込む陽光に照らされる、静かだがはっきりと生命を示す色。
その光景に息をするのも忘れて、磐座の上でザックスは立ちすくむ。

不意に脳裏に浮かぶ鮮やかな緑の記憶。鳥のさえずり、獣の鳴き声や足音。赤や黄に染まる木々の葉、花の匂い、草の匂い。ここにはないけれど、知っていたもの、知っていること。
「……俺」
「うん?」
「……いろいろ忘れてるんだってこと、忘れてた」
「ザックス?」
「この景色見たら、わかった。山から命が消えてしまった時、俺の中身も消えたんだ。いろいろ忘れてるってこと、今まで気づかなかった。でも俺はもっといろいろ知ってたんだ。それが何なのか今は思い出せないけど、何かがあったことはわかる。それを取り戻さないと、俺もこの山も元に戻れない」
アンジールはザックスの雰囲気が少し変わったことに気づいた。それはおそらく、ガイがこの山を襲う前にザックスが持っていた、彼本来の顔に近いのだろうことにも。
「そうか。そうだな。少しずつでも取り戻していこう」
「うん」
身体は疲れ切っていたが、気持ちはこれまでにないほど落ち着いていた。
春の嵐のような子どもたちに翻弄されたおかげで、体内にくすぶっていた芽吹きの力は全部山の緑となって抜けていた。
「すっげえ疲れたけど……感謝しなきゃなのかな、あいつらに」

ザックスはすっかり乾いた磐座の上に大の字になって、薄い色の青空を見上げる。ほんのりとあたたかな風が肌を撫でる。
遠くで無邪気な笑い声が聞こえたような気がした。




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