舌三寸
「どうしたらシズちゃんを愛せるかなぁ」
にっこり。そういう表現が一番しっくり来る臨也の顔が今、もうすぐ目の前。
家に帰って靴を脱いで、玄関に自分のじゃない靴が一足きちんと揃えて置いてあって、蝶ネクタイを外して、ハンガーに掛けられたファー付きのコートが目に入って。
ああ、また来たのか、勝手に。第一鍵なんか渡した覚えもないのに。家を出る時は戸締まりに気を付けてって幽が言うから気を付けてるけど、これじゃあ意味がないなぁ。
「愛さなくて結構」
「そう言わないでよ。しらける」
にんまり。今度はそんな顔。笑い方にも色々あるんだな、俺は怒る事が多いから、そんなにたくさんの笑い顔を知らない。トムさんの笑った顔よりも、幽の笑った顔よりも、セルティも新羅もヴァローナも茜も九瑠璃と舞流も皆皆、それらを足しても足りない。こいつは持っているんだ。それだけの笑った顔を持っているんだ。
「しらけろ、退け」
「嫌だよ。断る。俺はどうすれば良いのかな? ね、シズちゃん」
どうもこうも俺の上から退きやがれ。腹の上に文字通り乗っかった臨也は、耐えられない程でもないがそこそこに重い。人のまるきり上だというのに、何の遠慮もせずによく乗ってられるな。
「今日の用はそれだけか」
「いつもこの用事だけだよ、シズちゃん。俺は君を愛したいんだよ。どうすれば良いだろう」
「わかった。愛さなくて良いから退け」
くるっとした眼球がこちらを見る。球体の表面を覆う涙の膜に綺麗に反射した光が滑る。伏せられた瞼に光が消えて、変わりに睫毛が影を落とす。
何をする気かは知らないし知りたくもないし知ったところでどうもしないが、気分は良くない。とにかく気分が良くない。なんだってノミ蟲に触れられなきゃならない、なんだってノミ蟲の好きにされなきゃならない。
「愛さなくて良いとか言ってさ、そんなのシズちゃんの勝手でしょ。残念だけど俺は愛したいんだよね、シズちゃんを愛したいの。心から……そうだなぁ」
「手前のそれも勝手だろうがよ、死ぬか? あ?」
「んー…やっぱりなぁ。視覚じゃないのかも知れないね。シズちゃん顔綺麗だもんね。やっぱり顔は見えた方が良いや」
ゆらりと上がった瞼が、俺を見る。球体に俺が写る。俺、なんか酷い顔してるなぁ。死んだ魚みたいな、無表情。いつもの怒るはどこへ行ったんだろう。
反対に臨也はまた笑う。今度はふわり、そういう顔。ああ、その顔も知らないな。
「次は聴覚」
臨也は両手を上げて、自分の両耳を塞ぐ。なぁその両手でさ、手前の首でも締めたら良いのに。そうしたら少しは俺の気分も晴れるのに。
「…ちょっとシズちゃんさぁ、何か喋ってくれなきゃやってる意味が無いでしょ。ほら声出してよシズちゃん」
「……るせぇ、死ね」
「もっと」
「……殺す」
「もっと」
「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す」
ぱっと両手を離して、臨也は眉を下げて笑う。困ったような顔。でも嬉しそうな顔。離した両手が俺の顔に触れて、臨也の顔が近くなる。
前のめりになるから、更に腹が潰されて少し息苦さも増す。いい加減に退いたらどうなんだ。いつまでそこに座ってる気だ。
「これも違うのかも。ていうかもっと他に言う事ないの?」
「あぁ?」
「『愛してる』とかさ、ねぇ言ってみてよ。まぁ言うわけないかぁ…じゃあ次はね」
するりと臨也の手が滑る。掛けっぱなしだったサングラスが外されて、カシャンとすぐ側に置かれる音。指で耳を挟まれる。クリアになった視界と、指が肌を擦る音で霞む聴覚。
「味覚」
首の後ろに指が回る。唇に押し付けられたそれが柔らかくて瞬きを忘れた。顎に指が掛かって、歯を触られて、ぬるっとした感触。
口内に滑り込んだのは多分、臨也の舌。ゼロより近い距離、侵食されたんだから、多分マイナス。
「……っ、」
気分が、悪い。
「…!!、ッッて!!」
唇に触れたのとほとんど変わらない。右の握った拳に跳ねられて、遮られていた電球の光が降る。そうだ、サングラス取られてたんだ。眩しさに起き上がると、丁度左へ飛んでいった臨也も起き上がったらしい。
「ちょ…洒落になんない。シズちゃん自分の凶悪さわかってんの?」
「そっくり返す」
とろりと唇に垂れた血が良い気味だ。
「あーもう痛い。痛いよ本気で」
「そのまま死ね」
「死なないように殴ったくせに」
左腕を伸ばして丁度。ただただ笑った臨也の襟を掴んで引き寄せる。僅かに引き摺られた臨也は赤くなった唇を弛めてそう吐いた。
「死ね」
「アハハ、可愛いの、シズちゃん」
顎に降りた血は今に喉に落ちそうだ。
くるくる変わる笑い顔を乗せた首が、また何かを紡ごうと揺らいでいた。
・舌三寸に愛す
薄っぺらな愛を、幾重に幾重に
これは俺得過ぎる
110220