Happy for you. 3.和葉と新一。
着替えてリビングへと向かうと、まずはそのままキッチンへと向かって。
有希子の趣味で揃えてあるティーセットへと紅茶を淹れた。
「ごめん。ジュースとかねーから、取り敢えず紅茶。ミルクと砂糖はお好きにどーぞ」
和葉の前にソーサーに乗せたカップを置いて、その隣にミルクの小瓶と角砂糖の入ったポットを置く。
辺りに紅茶の良い香りが広がる。
「おおきに」
カップに手を伸ばし、引き寄せたカップから立つ香りに、少しだけ和葉の瞳の強さが緩んだ。
ように見えた。
「それで?服部がどうしたって?」
向かいに腰を下ろし、自分のカップを手にとって、その中で揺れる紅茶を眺める。
「どうしたもこうしたもないて。なんやねん、アレ。あないな平次初めて見たわ。ほんま、工藤君、何してくれてんの。信じられへん」
一気に喋ると、そのままカップを口へと運ぶ。
こう言う所は平次と良く似ている、と。
新一は、和葉の姿を眺めながら、ぼんやりと思った。
「せっかくアタシが自覚させてやろうとしたのに。身ぃ退いた意味いっこもあらへん!」
「……はい?」
一瞬で、ぼんやりしていたのがすっぱりと晴れて。
口に含んでいた紅茶が、ごくり、と音を立てて喉を通った。
「で。工藤君は実際、平次の事どない思ってんの?」
「どうって……」
言われている事の意味が分からず、一気に思考が停止した。
買ったばかりの消しゴムのように真っ白。
何故、和葉にこんな事を朝から言われて責められているのか。
今の新一には全く理解できない。
「どうも何も……友達だろ?」
「ホンマにそう思ってる?それだけなん?それ以上には思ってへんの?」
「それ以上って……遠山さん、何を言ってんの?」
そう言えば。
『工藤君のこと恨むわ』
そんなメールが、前に和葉から来ていたな、と新一は混乱している頭の中で思い出す。
そしてさっき、和葉は身を退いた意味がない、と言っていた。
と、言う事は。
「前に、服部に変な事言ったみてーだけど……まさか、オレにも同じ事思ってたりする?」
平次が新一を好きなのだと思ったように。
新一もまた、平次を好きだと。
和葉はそう思っていた。
記憶の欠片を繋ぎ合わせると、そんな結論が浮かび上がる。
「ちょっと待てよ。遠山さんが服部を想う気持ちは分かるけど。だからって、服部の為にんな強引な……。第一、服部だって、ホントにオレをそう言う意味で好きってワケじゃ……」
「平次は工藤君の事好きや。アタシを誰や思ってんの?平次の事やったら、平次本人よりよう分かってるわ」
服部平次と言う男は。
事件の推理はきれてるが、こと己の感情に関してはすこぶる鈍感な男だ。
そして和葉は。
そんな平次を、幼い頃から見守ってきたワケで。
確かに、言う通り、当の本人よりもその辺は良く分かるのかも知れなかった。
だが。
「確かに……百歩譲って、服部についてはそうだとしても、だ。だからって、オレも服部を好きだって考えるのはおかしいんじゃねーの?」
和葉は、新一とはそれほど親しい仲ではない。
平次や蘭を通じて会う事はあっても、互いを深く知るような会話を交わした記憶は、新一の中には無かった。
「服部のそんな気持ちに気付いて、オレがひいたとは思わなかったワケ?」
普通に考えれば。
そうなるのが一般的な筈だ。
その場合、和葉の今行っている行動は逆効果と言う事になる。
だと言うのに、これだけの行動を起こしていると言う事は、何かしら裏付ける自信があるのだろう。
当の新一ですら、分からないと言うのに。
「そやね。普通やったら、そうかも分からんね。けど、違うやろ?平次に好きゆわれて、工藤君、ひかへんかったやろ。寧ろ嬉しかった。違う?」
確かに、ひきはしなかった。
嬉しかったのかは分からないけれど、あの時新一は、嫌だとは思わなかった。
だから、和葉の問い掛けに、返す言葉が出てこない。
そんな、黙ったままの新一を見る和葉の目が。
きついものから、悲しそうなものへとゆっくり変わる。
「なのに何で……。何でわざと平次を傷付けたりするん」
彼女は、本当に平次の事が好きなのだと。
思うと心がちくちく痛む。
「……逆にどうして……。そんなに服部が好きなら。どうして自分がその傷を癒してやろうとしないんだよ」
自分が考えていた結末は。
心の支えが和葉であると平次が気付いて、自分の気持ちを自覚する。
そんなハッピーエンドの筈だった。
それが自分に与えられた役目だと思っていたから。
けれどそれが、もし間違いだったとしたのなら。
「アタシじゃアカンねん。アタシじゃ……せやから……っ!」
続く筈であったであろう言葉は。
言葉として伝えられなくても、何となく新一には分かった。
「……だからって。オレに、何ができるってんだよ。オレは服部の事なんて……」
無意識に新一を見つめて、気付かれて赤くなった顔。
好きなのではないかと言われたと、新一をおずおずと見上げていた、気まずそうな顔。
この世の終りみたいな絶望した顔。
カフェで話している時の無邪気な顔。
心底怒って、表情をなくした顔。
悲しくて。
それを隠すために無理して笑った顔。
沢山の平次が、代わる代わる脳裏に浮かんで消える。
平次の事を、そう言う意味で好きだと思った事は、新一には一度もなかった。
今だって、思っているかと問われれば、すぐにそうと言うことはできない。
けれどだとすれば、どうしてこんなに心が痛むのか。
分からなくて、新一はぎゅっと膝の上で両手の拳を握った。
「真実から目ぇ逸らしたら。探偵失格なんやで、工藤君」
上げた新一の視線の先。
少し悲しげに。
それでも僅かに笑顔を浮かべる和葉が見える。
「平次を助けてたって、名探偵。依頼料は堪忍な。あげれるモン、こんで全部や。アタシ、もうなんも持ってへん」
「遠山さん……」
言ってはっきりと笑顔を作ると。
カップをソーサーに戻し、和葉が立ち上がる。
「ほな、頼んだで!アタシ、蘭ちゃんとこの後会う約束してんねん。お茶、美味しかったわ」
ひらり片手を振って、リビングを出てゆく和葉を、新一は追おうと、立ち上がりかけてやめた。
少しして聞こえてくる、玄関の扉の閉まる音。
和葉が帰って、一人になったリビングで。
新一は魂が抜けたみたいに、ただソファに腰掛けて空を見ていた。
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