(じゃあお前さ、何のためにアイツの近くにいるわけ?)


記憶はいつだって、少しでも昔のことで自分が傷付いてしまわないように、優しい思い出になるように、セピア色の霞みをかけて私を守る。
彼がどんな表情でそれを言ったのか、私は結局知らないままだし、この先それを知ることなんて出来やしない。ただ、おぼろげに思い出す彼の声は、そのときとても暖かく、優しく、そしてひどく私を突き放した。

私は今も聞こえている。
声が、私を試すように彼が言った、その言葉が。

あれからずっと、聞こえている。
あれからずっと、囚われている。





***





まだ真新しいセーラー服に袖を通し、モスグリーンのスカーフを結ぶ。鏡の中の自分が少しだけ生まれ変わったような気がした。きつく目を瞑り、両手で頬をぱしんっと叩く。目を見開いて目の前の女をしっかりと見据えた。

「…よしっ!」

ほとんど恒例になったそれで気合いをいれ、鈴々は部屋のカーテンを勢いよく開ける。朝の太陽が差し込むと室内は一気に明るくなった。ふと、机の上に置いていた携帯のランプが点滅しているのに気付く。すぐに手にとって確認するとメールの受信を知らせていたようで、送信者の見慣れた名前に思わず顔がほころぶ。

『おはよう。今日雨降るらしいぞ。傘忘れるなよ!』

了解!

送信完了の文字が表示されると、自分の口元が緩んでいることに気が付いた。誰も見ていないことは承知だけど、思わず片手でにやける口を押さえる。そうだ、今日は学校の帰りにお見舞いに行こう。自分の新しい制服姿を、彼にはまだ見せていなかったことを思い出した。

手に持っていた携帯をポケットの中に突っ込み、制服と同様にまだ新品同然の通学カバンを肩に掛ける。腕時計を一瞥してから部屋を出ようとして、不意に開け放ったカーテンの向こう側が視界に映った。

隣家のベランダは、手摺を越えなくてもすぐ手が届くような距離にある。けれどそこの窓のカーテンが開けられているところを、ここ数年私は見ていない。昔は手摺を越えて互いの部屋を行き来して、よく双方の親に怒られたものだ。鈴々は久しく顔を合わせていない幼馴染の顔を思い浮かべる。吐き出しそうな溜息を押しこんで、そしてゆっくりと部屋を出た。





***





メールで教えてもらった通り今日は昼過ぎから天気が下り、放課後になると強い雨に変わった。鈴々が帰り支度をしていると、ふいに背後から名前を呼ばれる。

「鈴々ー、今からちょっと時間ある?」
「何、どうしたの」
「帰る前に職員室寄っていい?さっきのプリント出してなくってさぁ」

そう言って彼女は手に持った紙をひらひらとさせた。鈴々はその姿に「いいよ」と軽く了承する。二人揃ってバックを持って教室を出ると、並んで職員室に向かった。他愛ない会話を交わして、ふと思いついたように「そういえばさぁ」と、隣を歩く鈴々に質問を投げた。

「鈴々って何か部活やる?」
「いや、特に何も考えてなかったかなぁ。サキは陸上だっけ?」
「うん、中学からずっとやってるしね。そういえばアンタって中学で部活なにやってたの?」
「えーと、まぁ帰宅部、かな?」
「え、何その微妙な返事」
「あー…途中でやめちゃったんだよね」
「ああ、そうなんだ。じゃあやめる前は何?」

その台詞に鈴々は言葉に詰まる。一瞬だけ僅かな間をおいて「…バスケ」と、彼女は答えた。

「へぇ、何か意外!そんな体育会系のイメージなかった」
「あはは、でしょう?」
「どうせ練習がめんどくなった、とか?」
「ちょっと、私のことなんだと思ってんの」
「やっだ冗談だよー!あ、ていうかそれよりさぁ…」

廊下の窓から眼下に体育館が見える。鈴々は隣を歩く友人の話に相槌を打ちながら、そっとそれを見下ろした。懐かしいというほど昔のことではない。また戻りたいかというと、自信を持って頷くことが出来なかった。ただ今の今まで、あの頃の彼らの姿を思い出すことはない。思い出すまでもなく、彼女はそれを忘れたことがなかった。




「ちょっと待っててね。すぐ戻るから」

そう言って例のプリントを片手に教員室へ入っていた友人を見送る。雨の止まない外を眺めながら彼女を待っていると、先ほど友人が入っていった教員室の扉から二人組の男子生徒が出てきた。耳に入ってきた会話の内容から、どうやら男子バスケ部の部員のようだ。無意識に彼らの話す内容に注意が向いてしまう。

「今日の練習、二年と一年でミニゲームするってよ。カントクが言ってた」
「まじかー。あれだろ、何だっけあのでけぇヤツ」
「火神?」
「そうそう、何でもアメリカ仕込みがどうとかって」
「すげぇな。あ、ていうかさ、お前聞いた?」
「なに?」

勿体ぶるように話すその言葉に耳をそばだてる。そして次の瞬間、彼が言った単語に鈴々は耳を疑った。

「帝光中のヤツが入ったらしい」
「え!?」

予想外のその「帝光中」という言葉に、鈴々も思わず声を出しそうになった。驚きを隠せず彼らの方に視線を向けるが、二人はそんな彼女に気付くこともなく去って行った。残された鈴々の脳内には先ほどの会話が反芻している。

プリントを出しに行った友人はまだ戻ってこない。一瞬だけ迷った。しかし次の瞬間、彼女は衝動的に走り出す。向かうべき場所は決まっていた。




雨は止まない。途中何度か人にぶつかっては、その度に平謝りを繰り返した。渡り廊下を過ぎた先に目的の建物が見える。そしてようやく立ち止って我に返った。乱れた息を落ち着かせるように胸を抑える。ごくり、と喉を鳴らしてから、彼女は意を決したようにゆっくりと歩みを進めた。部員たちが掛け合う声、歓声、ボールの音。聞こえる。逸る気持ちを押しこむ。焦りだろうか。焦燥のような不安にせかされる。

「うわあ!!信じらんねェ!!」
「1点差!?」

驚嘆したような声が聞こえた。開け放たれていた扉からそっと体育館を覗きこむと、特有の熱気が籠る館内に部員たちの興奮した声が響いていた。その声色に異常なものを感じる。しかしコートでプレーする部員に視線を向けて、鈴々は自分が感じたその感覚の理由が分かった。

“彼”が試合に出ている時は、必ずそのコート全体に違和感が生じる。
見えない何かに、抗えないような何かに、ゲームが誘導されるような感覚。その独特の、否、奇妙な程の存在。コートの中でならなおのこと、彼を見間違うはずがない。彼女は茫然とその場に立ち尽くした。自然と自分の口から、一つの名前が零れ落ちる。

「…黒子、くん」

まさかと思った。何度も自分の目を疑った。彼がここにいる驚きと懐かしさ、その姿に目を奪われる。彼が目の前にいるという驚愕に唖然とし、そして彼女はハッとした。彼が影としてプレーするその傍らには、絶えず光が存在するのだ。鈴々はコートの中を走る彼の姿を必死に目で追う。そしてその瞬間は、存外直ぐに現れた。

「しまっ…!」
「いけえ黒子!!」
「勝っ…」

フリーでボールを持った黒子はゴールへと向かう。しかし彼の放ったシュートは縁に跳ね返された。けれどその直後、彼の背後から赤黒い髪をした男の姿が現れる。その群を抜いた跳躍力で高く、高く飛ぶ。

「ちゃんと決めろタコ!!」

リングが震える程のダンクシュート。黒子はまるで彼が入れるのを分かっていたようだった。見間違いでなければ、僅かに微笑んでいたようにも見える。

鈴々は再び唖然とした。
目の前で繰り広げられたプレーの凄さに、ではない。ダンクを決めたその男の姿が、フラッシュバックした“誰か”に重なった。
黒子は自身を影と言った。彼の側には絶えず光が存在する。そして、一瞬にして彼女は知った。この男は、きっと彼の光になる。


だって似ている。飽きるほど見続けたあの姿と。
だって同じなのだ。目の前の男の瞳と、1年前までの彼の瞳は。
重なってしまった。一瞬だけ、彼がいるのかと。自分はきっと、期待したのだ。


(青峰くん)


自分が思い浮かべたその名前に、彼女は思わず口元を手で覆った。覗いていた扉から、よろめくように二、三歩後退る。そして勢いよく振り返ってその場を離れた。
小走りで進む途中、角に差し掛かった時、ちょうど同じタイミングで角を曲がって来た人物とぶつかった。鈴々は慌てて頭を下げる。

「わっ!」
「っあ、ご、ごめんなさい…!」
「いや、私こそ……あ、あれ…?あ、」

鈴々に相手の顔を見ている余裕はなかった。ぶつかった相手が何か言おうと彼女に制止の言葉をかけようとするが、それも彼女の耳には入らなかった。何度も転びそうになりながらも、昇降口まで来ると乱れた息のまま立ち止る。そして震える手で携帯を取り出し、慣れた手付きで記憶している番号を押した。すぐに鳴りだす呼び出し音に、焦りから苛立ちが生まれる。早く。どうか早く。その間はたった十秒ほどだったろうか。発信音がぷつりと切れて待ち望んだ声が聞こえた。

『―もしもし、どうした?』

その声に、胸の奥にあった何かが一気に溶けだしたような気がした。自分が酷く焦っていたのだと、彼女はそのとき始めて知った。走ったのと緊張で乱れていた呼吸を静かに落ち着かせる。目を閉じてゆっくり息を吐き出した。何も言わない鈴々を不審に思ったのか、電話の相手は『鈴々?』と呼びかけた。それが彼女を一層安心させる。

「…木吉さん」

名前を呼ばれた相手の男は優しい声色でそれに応える。視線を上げると、雨粒に濡れた窓に自分の姿が映っていた。その顔がまるで泣いているみたいに情けなくて、ひどくみすぼらしかった。彼女はもう一度「木吉さん、」と名前を呼ぶ。彼は黙って彼女の言葉を待った。

「…どうしようもない…、私、まだ思い知り足りないみたい」





***





-one year ago



言葉が何も出なかった。言い訳も、釈明も、何一つ思い浮かびはしなかった。青峰君はただ黙って私の目の前にいる。彼の横顔が余りに静かで、私は身動き一つ出来なかった。

窓に寄り掛かっている彼の視線は、夕日を受けて教室に長く伸びる影に落とされている。彼は、ひどくゆっくりと口を開いた。

「…赤司は、お前が俺らの情報を流したって言ってんだよ」

喉の奥がカラカラに乾いていた。誰もいない空間に響く彼の言葉が、まるで素通りするかのように私の頭の中に入ってこない。無表情の彼から視線を外せなかった。

「お前が否定するなら、俺はお前を守ってやれる」

彼は私を見ない。分かっているのだ。彼は、全て知っている。知って、理解して、事実であると。だから今、青峰君は私を見ない。「なぁ、鈴々」と、彼は私の名前を呼んだ。彼の言葉は優しさだろうか。分からない。けれどその声はとても優しく私の耳に聞こえた。

私はきつく握りしめていた両手をそっと開く。一瞬前までの息の詰まる様な緊張はもうなかった。混乱はまだ収まらない。けれど、もうどうでもよかった。

彼はまっすぐな人間だ。私はそんな彼に、「嘘を吐け」と言わせてしまった。私の行ったことの全ての結果はそこにあった。もういいのだ。私はきっと、どこかで間違った。

「…青峰くん」

声が震えていないことに少しだけ安堵した。
彼はようやく私を見てくれた。その瞳が悲しげな色を含んでいたことに、私はまた後悔の念に襲われる。でもそれも、もしかしたら気のせいかもしれない。
静かに息を止める。しっかりと彼を見詰めた。できることなら、こんなことになる前に彼に伝えてしまいたかった。貴方が好きだと、言ってしまえばよかった。今この瞬間、何も言わずに伝わればいいのに、なんて。ゆっくりと笑った。どんな顔をすればいいのか分からなかったのだ。

「―…ごめん」

彼は私の目をしっかりと見据え、そして一度ゆっくりと目を瞑った。
そして何も言わないまま背を向けて教室を出て行った。彼が扉を閉める音が静かに響く。
その背中を見送って、そして実感する。

全て終わった。
長い憧れも、長い想いも。
全て、終わったのだ。








×
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -