13

「よし、今日はここまで。各自、クールダウンを忘れないように」

 日もとっぷり暮れた頃、長いホイッスルの音が鳴り響き、ようやく不破から練習終了が宣告される。

「お疲れ様です…!」
「お先失礼しまーす…」

 心底疲れ切ったという表情の部員達が、次々と水から上がってゆく。その足取りは重く、まるでゾンビの群れが徘徊しているようだ。まあ、むべなるかな。件の不破の新メニューは、噂にたがわぬえげつない練習量であった。だがしかし、体力馬鹿と一部で褒めそやされる俺様にとってはこの程度のメニュー、何と言うものではない。

「あー…久々に泳いだわー」
「くっそ…平然とした顔しやがって…部長のあのメニュー…ブランク明けのくせに…」

 コースロープにもたれ余韻に浸っていると、肩で息をしている緒方が悔しそうにジト目を向けてくる。

「ふふん、ペーペーとはベースが違うんだよ、ベースが。俺様に追いつこうなんざ、百二十光年早ぇって言ったろ」
「単位が増えてんですけど?! ジジイになってもあんたと勝負しろってか?」
「冗談はさておき、真剣な話、お前はまだ身体も出来上がってないし、伸び代はむしろここからだ。今のうちにみっちり鍛えてもらえ。基礎は土台だ。土台がしっかりして初めて、そこからお前の泳ぎが練成されていくんだからな。ここで手を抜かずに泳ぎ込めば、結果はおのずとついてくるはずだ」
「…うす!」

 少々説教臭くなってしまった俺のアドバイスに、緒方は真面目に肯く。こういうところは素直で可愛い奴である。

「新人大会、期待してるぜ」
「任せてくださいよ! 絶対に最高の成績出してみせますから!」

 ウィンクしてそうおだてて見せれば、頬を紅潮させ満面の笑みを返す。ううん…単純で熱血で、つくづく可愛いぜ。これで、生意気な口さえ聞かなければな。

「あれ、先輩まだ泳ぐんスか?」

 緩む口元もそのままにコースに戻ろうとすると、緒方が驚いた声をかけてくる。

「あー、今日遅刻したし…ブランクの分も取り戻したいからな。もう少しだけ泳いでくわ」
「じゃ、じゃあ俺も!」
「無理すんな、今にもぶっ倒れそうな位へろへろになくせに。無茶して身体壊したら元も子もないだろ。練習はきっちりやって、休息もしっかり取れ。何事もメリハリが大事なんだ。今日の疲労は明日に残すな。授業にも影響させんな。やるべきことをやってから次だ。いいな?」
「…っす」

 不承不承緒方が肯き、名残惜しそうにプールを去ってゆく。俺はそれを見届け、再び練習を再開した。
 自主練用のトレーニングメニューに今までの欠席分をプラスアルファ、なまってしまった身体を再び研ぎ澄ますべく、ひたすら泳ぐ。四泳法を一通りこなした後は、スタイルワンたる背泳ぎを中心に。
 そうして幾度も長水路を往復し、さしもの俺も体力の限界を感じつつあった。そろそろいい時間となってきたことでもあるし、今日はお開きとすることにしよう。
 水から上がり周囲を見渡せば、プールサイドにはすっかり人気はなくなっていた。俺の他にも何人か居残り練習をしている部員がいたはずだが、皆帰宅の途に就いたようで、残っているのは俺を除けば一名だけとなった。
 あれだけの練習をこなした後でもなお力強いバタフライが、ゴールにタッチするのを待って声をかける。

「俺もう上がるけど、不破はどうする?」
「もう少しだけ流してく。週末には落合コーチも来てくれるし」

 落合コーチは桜坂の卒業生で、オリンピックで幾度もメダルを獲得した元水泳選手であり、今は実業団のコーチを務めている。この偉大なるOBが、折を見てはボランティアで部員達の指導に来てくれるのだ。水泳部の顧問の教官はもちろん存在しているのだが、やはり第一線で活躍していた存在に直接導いてもらえるというのは大変ありがたいことだ。だから、不破が張り切る気持ちも理解できるのではあるが。

「お前、ほんっとタフだよな…」

 途中参加した俺ですら、いい加減疲れ出しているというのに。誰よりも多く練習している癖に、どこまで努力家なのだろう、この男は。

「四季を問わずに使える室内プールに、優れたコーチ。こんな恵まれた環境にいるのに、練習しない方がもったいないだろう」

 呆れ混じりに賞賛する俺に、不破は何でもないという風にしれっと返す。
 鬼主将は他人にばかりでなく、自分に対しても厳しいらしい。まったく、頭の下がることである。

「そっか。無理しねえ範囲で頑張れよ」
「お前もな。生徒会活動に時間を取られるようなら、部活動の時間枠に囚われない練習で構わないから」
「おう、サンキュー。じゃ、お先」

 厳しくしておいて、さりげなくフォローをしてみせるとか。このツンデレめ…!

 不意打ちされた不破の優しさに危うくメロメロにさせられながら、俺は久しぶりのプールサイドを後にした。




「あー、腹減った…」

 プール棟から学生寮への帰り道。日が沈んで久しく、空には丸い月と満天の星が輝いている。
 空きっ腹を抱え、一人寂しく遊歩道を歩いていると、不意に、奇妙な音が耳に飛び込んできた。

 ひゅん…ひゅん…と鋭く風を切る音。そして、ハッ、ハッ…という人の呼気のような音が、一定のリズムを刻んでいるのだ。

「な…何の音だ…?!」

 細い道には辻々に街灯が立てられているが、周囲はプール棟の他には建物らしい建物もなく、青々と茂った広葉樹に挟まれた道から闇を放逐するには、その光量は心許なさすぎる。茂みの奥から聞こえてくる、奇妙な音の発生源を見極めるには至らない。
 そもそも、この道はプールへ通う水泳部員以外は滅多に人が通らない。俺と不破以外の部員はとっくに帰寮したはずであるし、不破はまだプールに残っている。こんなところに、人がいるわけがない…のだ、理論的には。

 ならば、この音の正体は…?

 夏もまだ名残が深いというのに、俺の背筋をゾクリと寒いものが走る。

「は、はは…幽霊なんているわけねえだろ! 科学的にありえねーし!! これくらいでビビってんじゃねえよ俺!」

 やけに白々しい声で自分を叱咤すると、俺は灌木をかき分け、音のする方へと足を踏み出した。

「誰だ…?!」

 未だかつてないほど緊迫した声で、俺は怪音の正体へと迫る。
 そして、そこで俺が目にしたものは…!!


「あれ、会長?」

 キョトンとした顔でこちらを見つめ返してくるのは、倉橋にくっついているKY集団の一員、爽やかスポーツ少年だ。Tシャツとジャージ姿のその腕に握られているものは、先端に行くにつれ先太りになった、長い木製の棒…すなわち、野球のバットだ。

「…素振りの音かよ…!」

 散々人の心胆を寒からしめたものの正体が、こんな健全な行為だったなんて。必要以上に怯えていた自分が情けなく思えて、がっくりと肩を落とす

「お疲れ様ス!」

 月灯りの下でも白く輝いて見える歯を覗かせ、スポーツ少年が爽やかに一礼する。


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