12

 ウォーミングアップは既に廊下で済ませてある。水に入るのはしばらくぶりではあるが、身体が覚えているはずだ。俺の、泳ぎを。あとは本能の赴くがまま、全力を尽くすのみ。

 先程まで騒がしかったギャラリーもいつしか口を噤み、固唾を飲んで勝負の行方を見守ろうとしている。しんと静まり返ったプールに審判のホイッスルの音が響き渡り、俺は床を蹴ってプールへと入水した。
 心地よい冷たさの水に、全身を柔らかく包まれる。久々の、だが馴染み深い感触に、自ずと胸が高鳴りだす。

 再び慣らされたホイッスルに合わせ、スターティンググリップを握りしめる。
 さして間を置かずに用意の合図が出され、構えの姿勢になるべく、俺は身体をスタート台へぐっと引き寄せた。

 頭の芯が冷たくなるほど聴覚が研ぎ澄まされ、全ての音が遠ざかる。ただ胸の鼓動だけが、うるさいほどに全身に鳴り響く。

 長く感じられた刹那ののち、スタートを告げる号令が耳を貫き、脳髄へと到達する。その瞬間、俺は力の限りに壁を蹴り、仰向けに水面へと飛び出した。


 水にくるまれた身体は浮力の作用を受け、重力の頸木から解き放たれる。体重が、常の半分ほどになったような身軽さ。空を翔ける翼か、はたまた水中を切って進む尾びれか…新たな推進力を手に入れ、世界を自在に飛翔できるようになったような……そんな強烈な解放感が、俺の心を逸らせる。

 前へ、前へ。

 ただそれだけを想い、無心に身体を動かす。水の流れを掴むように腕をかき、柔らかく、だが力強く脚を蹴り出し、前へと進む。
 心臓は激しく脈打ち、水中だと言うのに、身体は燃えるように熱い。最高のパフォーマンスをすべく、全身をアドレナリンが駆け巡り、細胞の一つ一つを活性化させる。
 技術と、筋力と体力と、己の持てる全てを尽くして、勝ち抜くために俺は泳ぐ。ただひたすらに、前へと向かい。


 ターンと往復を幾度か繰り返し、ラスト50メートル。

 見開いた目がふと、天井を捉えた。ガラスパネル越しに、茜色に染まりつつある空が見える。
 水中を泳いでいるのに、空を跳んでいるようだ。今は屋内水路だが、屋外で泳ぐ時などはより一層そう思う。空と海が溶け合い、一つになる。その狭間を、俺は泳ぎ、飛んでいる。青の世界に溶け込み、その一部になる。何とも贅沢で、他では味わい難い感覚だ。

 満ち足りた想いで身体を動かすうちにゴールが近付き、伸ばした指先が、プールの壁面に触れる。

 脚を地につけ、俺は再び重力が支配する世界へと帰ってきた。ゴーグルを外せば、どよめきと歓声が耳を打つ。どうやら、俺よりも先にゴールした人間はいないらしい。不破には何やかんやと言われたが、一応は面目躍如というものではないだろうか。

 誇らしげな気持ちで壁に背を預け、火照った身体をクールダウンさせる。
 全身が、清々しい疲労感に包まれている。生きている……そんな実感に包まれ、俺は大きく息を吐き出した。

「気持ちいい…」

 胸を満たす解放感、一体感、昂揚感、達成感…これだから、水泳は止められない。



 ややあって、次点で緒方がゴールする。

 肩を上下させつつゴーグルを外し、呆然とした顔でこちらを見つめる緒方に、俺はニヤリと笑いかけた。

「まだまだ、だな」

 羞恥かはたまた屈辱にか、その頬が真っ赤に染まる。

「ちくしょう……! いつかぜってーあんたに追いついてやる…!」
「楽しみにしてるぜ。何年先になるか分からねえけどな」

 緒方に続いて他の一年部員がゴールするのを眺めていれば、頭上から不遜な調子の声がかかる。

「さすがに、大口を叩くだけの結果は出せたようだな」
「不破! どーだ、俺様の実力は。しかとその目に焼き付けられたか?」
「いつも通り、スタートとフォーム、ターンに関しては申し分ない。見事なものだ、見本教材に採用したいほどだな」
「ふふん、まあそれほどでもあるぜ」

 明白たる事実を否定することは逆に嫌味である。ゆえに俺様は不破の偽りない(だろう)賛辞を素直に受け入れる。

「だが、後半から終盤にかけてのタイムが、普段に比べて芳しくないな。お前はいつも後半にかけて伸ばしてくるだろう。練習量が減ったせいで、スタミナが落ちたんじゃないか?」
「うっ…」

 確かにそれは否めない。久しぶりの練習で若干勘が鈍ったところもあっただろうけど、それ以上に疲労が常より大きく身体にのしかかってきている。心地よい疲労感ではあるが、肝心の泳ぎが疎かになってしまうのでは意味がない。

「じきに大会だと言うのに、こんな調子では困るんだがな」
「わぁってるよ! 今後は練習にもきちんと顔出します、不破主将! 大会にもタイムにも、絶対に影響は出さねえから!」
「ああ。失望させてくれるなよ」

 そう言って、ようやっと不破は控えめながらも笑みを向けてくれた。
 良かった、どうやらこれでお咎めなしのようだ。俺はこっそり胸を撫で下ろす。ビビリと侮ってくれるなかれ。普段はクールな不破だからこそ、時たま雷が落ちた時の反動は恐ろしいのだ。

「さあ、休憩はこれで終わりだ。練習に戻るぞ!」

 不破の号令に従い、部員達がもともとの持ち場へ帰ってゆく。俺も、一水泳部員として鳴らした日々に戻るべく、その群れへと加わるのであった。



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