11

 鼻をくすぐるは潮の香…ならぬ、塩素の香り。そして耳に入るは潮騒ならぬ喧騒と、水飛沫のはぜる音。
 満々と水をたたえる水面は、窓から漏れ入る夕日を照り返し、キラキラと輝いている。

 随分と久方ぶりに目にしたその光景に、匂いに音に、俺は胸が詰まるような慕わしさと、全てのしがらみから解き放たれたかのような安堵を覚え、盛大に嘆息した。

 ああ…やっぱり『ここ』は、最高だ……

偉大なる大海原には比ぶべくもないものの、彼の場所…水泳プールは、俺の心の故郷と言っても過言ではない聖域なのである。

 幼少のみぎりにスイミングスクールに入会してから桜坂水泳部の一員となった今日までずっと、欠かすことなく通い詰めていたプールだったが、生徒会長に就任してからというもの、日々の繁忙のため、めっきり足が遠のいてしまった。本来ならば、あんな厄介人間ばかりの物々しい生徒会室などではなく、ここ…桜坂学園室内長水路プールこそが、俺のあるべき場所だと言うのに。仕事をサボるばかりか、俺の心のオアシスまで遠ざけやがって。返す返すも憎たらしい、生徒会役員の阿呆どもと、元凶の倉橋め。

 だがしかし、かくも険しき艱難辛苦を乗り越えて、ついに俺は帰ってきたのだ、この場所に。


「おい、あれ…」
「あ…」

 通路を歩む俺の姿に気付いたのか、練習をしていた面々が徐々にざわめき出す。

「各務…!!」
「各務じゃねーか!」
「各務先輩!!」

 ゆっくりとプールサイドに足を踏み出せば、部員達が口々に俺の名を呼び駆け寄ってくる。

 ふっ…人気者は辛いぜ。

 近寄ってくる仲間たちを抱擁すべく、俺は笑みを浮かべて大きく腕を広げた。

「てめえ!!自分一人だけ不破のしごきから逃れてんじゃねえよ!」
「ずりーんだよ! お前の分まで俺等がいびられんだぞ!」
「おせぇっすよ! 何こんな時間にのこのこやってきてるんスか!!」
「ぐっはぁっ!」

 ところがどっこい、そんな罵倒と共に寄せられたのは、強烈なボディーブローにラリアット、ローキックだ。次々と炸裂する非道な虐待行為に、俺は悶絶してうずくまる。

「てっ…てめーら、何しやがる……!」

 あの後、降矢達を宥めすかして必至にアンケート集計を終え、速攻で部に顔を出したというのに、この仕打ち。あまりにあまりではないか。思わず涙目になってしまうぜ。

「自業自得だ」

 そんな冷ややかな声と共に、モーゼの十戒のように、俺を囲む人波を割って現れる姿がある。

「実に十日ぶりだな、会長閣下」

 現れたのは、腕組みをし、凍りつくような冷たい眼差しで俺を見下ろす、我がクラスメイトにして水泳部の部長でもある、不破である。
 教室で毎日会ってるだろ…なんて軽口を返せる雰囲気ではない。

「るせえ。部活に来てまで会長なんて呼ばれたくねーんだよ」
「一ヒラ部員として扱われたいなら、もっとまめに顔を出すことだ。それとも、生徒会室は、プールよりよっぽど居心地がいいか? 綺麗どころのエリートに囲まれて、自分もその一員になり上がったと勘違いか?」
「天地がひっくり返っても、んなことがあるわけねー! 仕方ねえだろ、色々忙しいんだよ、生徒会長様は。あれやこれやとやることがあって…」
「部活動と生徒会、両立出来る程度の力量もないなら、生徒会長の役は過分な大役だったと、初めから辞退しておくべきだったな」

 言い訳がましく口を尖らせる俺に、遠慮も労りもない言葉を浴びせる不破。一応友人と言っていい間柄であるはずなのに、微塵も容赦してくれそうもない鬼部長っぷりである。

「あぁん? 舐めんなよ、たかが生徒会の仕事くらい、この俺サマにかかりゃあ、片手間に済ませられんだよ」
「なら、部活動に支障を来すような真似は慎んでもらおうか。生徒会長の代わりはいくらでもいるが、桜坂水泳部、背泳ぎのエースは、お前を措いていないんだ」
「ふっ、まあな! 他の誰だろうが、この俺の代わりが務まるわけねえぜ!」

 ふ…他の部員の手前もあり、立場上は厳しいことを言ってみせるが、不破の奴。何だかんだで結局は、俺がいなければ駄目なのではないか。このツンデレめ、愛い奴よ。

「だからと言って、調子に乗るなよ。お前がそうして腑抜けている間に、一年も力を付けてきてるんだ、うかうかしてると、レギュラーの座を奪われるぞ」
「そうっすよ! 各務先輩がサボってる間に部長に鍛えられて、俺もかなりタイム上げてきましたから! デスクワーク漬けで身体のなまった、ブランク明けの誰かさんにゃあ負けねーっスよ!」

 不破に乗せられ、やいのやいのと囃し立ててくるクソ生意気な後輩…緒方を、俺は余裕も綽々に見返してやる。

「ふふん、俺を抜こうだなんて、百二十年早いぜ、くちばしの黄色いヒヨっこめ。不破の陰でピヨピヨ囀ってるうちは、俺様のつま先すら掠められんよ」
「な、何をー?!」
「相変わらず口だけは達者だな。そこまで大口を叩くんだったらさっそく、その力のほどを見せてもらうか。……安西、道井、松岡、それに緒方。200バック(背泳ぎ)のトライアルだ。各務に勝ったら、レギュラー入りも検討してやる」
「うそ、レギュラー?!」
「マジすか部長!」
「ああ、本気でいけ。目の上のたんこぶを追い落とすチャンスだぞ」

 不破の指名を受け、一年坊主たちがわっと盛り上がる。

「…ふざけた真似してくれんじゃねーか」

 とんでもない提案をしておきながら飄々と佇む不破を、頬を引き攣らせて睨みつける。

「負けなければいいだけの話だろう。わざわざお前の得意種目を設定してやったんだ。減らず口ほどの実力があるなら、万に一つも落とすはずがないだろう? そんなことになれば、お笑い草もいいところだからな」
「はん! ケツの青い一年坊主どもに負けるかよ」
「ならば、示してみろ。お前のその力を」

 腕組みをした不破が、射竦めるような鋭い眼を俺に向ける。

「っ…!」

 瞬間、背筋がゾワリと慄く。

 まるで、不破に挑みかかられているような。実際に勝負をするのは、一年部員達であるというのに。

 …くそ、こいつと対峙する時はいつもこうだ。前に立ちはだかる者は誰であろうと関係ない、全力を以って打ち破る…全身でそう語る、溢れるその気迫に呑まれてしまいそうになる。競泳にかける想いは、俺とてけして劣ってはいないはずなのに。

「…ああ! 見せてやる」

 負けられない。負けたくない。
 俺だって、生半可な気持ちで水泳を続けているわけではないのだ。何よりも泳ぐことが好きで、生活の一部となるほどに親しんでいて、今まで過ごしてきた長い時間に誇りを持っているからこそ、誰にも譲れない。

 この思いと覚悟、見せつけてやるぜ!

「各務先輩、悪ぃけど、レギュラーの座いただきっスよ!」
「させるか、ヒヨっこ」

 じゃれついてくる緒方を華麗にいなしつつプールへと歩を進め、対戦相手となった一年坊主たちと共に、レーンの前に立つ。


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