「いやあああっ、汚ぁーい!! やだやだ、最低ぇえ!!」
上履きをぶつけらたせいで、べっとり染み込んでいたヘドロが顔に付着し、小森は金切り声で泣き叫ぶ。
「…へえ、分かってたんだ?」
取り乱す小森の姿に、倉橋はゆったりと歩みを進めながら、皮肉げに片頬を歪めて笑った。
「靴箱に泥なんか仕込まれたって、ラブレターと違って全然嬉しくないし、ムカつくだけだって、あんた、分かってたのか」
「そ、それは…」
普段はのほほんとした倉橋らしからぬ、とんがった物言いに、小森が鼻白んだように一歩後ずさる。
「泥まみれにされて、気持ち悪いだろ? 悲しいだろ? 悔しいだろ? 自分がされていやなことを、他人にだってするんじゃねえよ!!」
もう片方の俺の上履きを、小森の足元に叩きつけるように投げつけ、倉橋は一喝する。
人が変わったかのように迫力あるその姿に、俺も織田も圧倒されたまま、呆然と見守るばかりだ。
「正巳だって、自分のためにこんなことされたら悲しいに決まってるだろ!! 人を傷付けて、喜ぶ奴がどこにいるんだ! どいつもこいつも、主人のためにって、当人の気持ちも考えないで勝手なことばっかりして!! こんな卑劣な真似しかできねえなら、親衛隊なんてなくなっちまえばいい!!」
「この、ガキが…!」
顔を真っ赤にした小森が手を振りあげるが、倉橋は小揺るぎもせずに真っ直ぐに睨み返す。
パン…という乾いた音が、廊下に響いた。
「あ…」
そうして、一瞬ののち。
愕然とした顔をしているのは、殴った小森の方だった。
「薄汚れた手で、なつきに触れないでくれませんか」
僅かに赤くなった頬を庇いもせず、佐原が冷淡な声音で小森に告げる。
「さ、佐原様…」
小森の手が倉橋に向かって振り下ろされたその時、かけつけてきた佐原が、強引に二人の間に身体を割り込ませたのだ。
「桃李!! ご、ごめん、俺…」
「なつき、あなたは頑張りましたよ。正義感に溢れ、情に篤く、心優しい…本当に、あなたはいい子です」
ふにゃんと泣き声になる倉橋に、佐原が誇らしげに、愛おしげに微笑みかける。
「すみません、各務様…倉橋に上履きを…奪われてしまって…必死に追いかけたん、ですが…」
そこに、ぜえぜえと肩で息をしながら桐嶋が追いついてきて、事態の経緯を説明する。
そしてもちろん、倉橋のあるところにKY軍団ありだ。その他もろもろも一緒についてきた。
おまけにマキも、傍観者モードで遠巻きに眺める生徒達に紛れている。完璧に他人事面だ。
「よーしよし、ナツ。かっこよかったぜ、惚れなおしちまった」
「…ちゃっかり肩抱いてんじゃねえよ、ムッツリ」
「イテッ、蹴るなって。それに、俺はムッツリじゃなくて、オープンだっつの」
倉橋を抱きかかえたスポーツ少年と一匹狼が漫才を繰り広げる横から、降矢兄弟がずずいっと進み出る。
「君さぁ、何様のつもりなわけぇ? たかだか、織田のグループ子会社の一族の分際でさあ」
「織田の権威を笠に着てぇ、何やっても許されると思ってるならぁ、それは思い違いだってぇ、僕等が直々に思い知らせてあげようかぁ?」
「降矢様方…」
佐原と降矢を敵に回し、さすがの小森も旗色の悪さを感じ取ったか、気まずそうな顔で唇を噛む。
そういえば、三木本の奴の姿だけが見えない。さきほども調子が悪そうだったし、戦線離脱だろうか。
完全に脇役に成り下がった俺と織田を置き去りに、ヒロインを守るヒーローのごとく、佐原と降矢兄弟が勢いを失った小森に畳みかける。
「これ以上、我々に楯突こうというのならば、容赦はしません」
「別にぃ、会長には何をしようと構わないけどぉ…」
「今度またなっちゃんに手ぇ出した時はぁ………本気で潰すから」
人を支配し慣れた人間特有の、傲慢さと強引さ、そして威厳。
この俺ですらちょっぴりびびるほどの威圧感ですごむ三人に、小森も顔色を失うかと思ったが、ところが奴は怯まずに顔を上げ、キッと佐原達を睨み返した。敵ながら、なかなか根性のある奴である。
「お言葉ですが、皆様方。そもそもの原因は、皆様方が倉橋なつきを偏愛なさったことにあるのですよ。彼への過剰な寵愛を不快に思っているのは、親衛隊員等に限った事ではありません。一般生徒らの中にも、皆様方の最近のなさりようを苦々しく感じている者等は大勢おります」
「俺、のせいで…みんなまで、悪く思われてるのか…?」
倉橋が小森の言葉に、小さく身体を震わせる。
「なつき、彼の戯言を真に受ける必要はない。そもそも、僕等の行動を他人に咎めだてされるいわれはないんですから。責任転嫁もいいところです」
「そーだよぉー。僕等が誰を好きになろうとぉ、僕等の勝手じゃんねえ?」
「そんなことまで指図される筋合いはぁ、どこにもないんだしぃ?」
ショックを受けた様子の倉橋を佐原達がなだめるが、小森は追い打ちをかけるように言い募る。
「いいえ。皆様方は、この桜坂学園の生徒会役員であらせられる。いわば、この学園の象徴ともいえる存在です。生徒達はそんな皆様方を敬愛し、手本として自らを切磋するのですから、桜坂生徒会に相応しからぬ言動は、慎んでいただかなければ。たかだか男子生徒一人風情のために、皆様方の評判や名誉を台無しになさるおつもりですか? そんな愚かしい真似は、どうかお止めになってください」
遠慮のない小森の言葉に、降矢兄弟が可憐ともいえる顔を引き攣らせる。
「…生意気にも、言ってくれるじゃあん、親衛隊風情が」
「大体、僕等はぁ、好きで生徒会役員になったわけじゃないんだしぃ」
「なっちゃんを好きになったことが問題だって言うならぁ、役員なんてぇ、いつだって止めたっていいんだよお?」
「それ以上は止めろ、降矢兄弟」
さすがにそれ以上は聞き流せず、俺は織田の腕から抜け出し、降矢の片割れの唇を、指で軽く押さえつけた。
「お前達は生徒達の信任を受けて生徒会役員になったんだ。お前たちなら、自分達を率いるに相応しい、自分達の上に立つに相応しい人間だってな。その信頼を、裏切るような発言は控えろ」
「っ…」
「ふん、だっ…」
降矢は煩わしげに俺の手を振り払ったが、周囲の生徒達の手前もあってか、あれ以上の暴言を吐き捨てるのは止めてくれたようだ。
双子が落ち着いたここで引き下がってくれればよかったものを、調子に乗った小森はさらにぺらぺらと持論をまくしたててくれた。
「そう、皆様方は選ばれた存在なんです。得体のしれないものや、下等な家柄のものは、あなたがたに相応しくはない。早急に排除すべきです。それができないなら、我々親衛隊が代わって、皆様方の障害を払いのけるまでのこと…」
「言わせておけば…っ!」
「…ほう。それでは、まるで、自分が織田様に相応しいとでもいうような口ぶりですね」
カッとなりかけた佐原を遮って、ようやく呼吸が落ち着いたらしい桐嶋が、小森に挑むような態度で笑いかけた。
「随分と付け上がっているじゃありませんか、不細工の分際で」
天女のような微笑みを浮かべた桐嶋が言い放った一言に、小森が凍りついた。