「は…」
喉の奥から、ひきつったような笑いが零れた。
白かったはずの上履きは、ヘドロだかタールだかの正体不明の汚泥に犯され、茶色とも灰色ともつかぬ不気味な色に染まってしまっている。
三カ月に一度ほどしか洗わない、お世辞にも清潔とは言い難い、思い入れも、さほどの値打もあるわけでもない上履きだが。こんなことをされてしまえば、さしもの寛大な俺とて頭に来るものがある。
「うわぁ…イヤガラセの常套手段とは言え、実際にやられると地味にムカつくなー」
隣から覗きこんできたマキが、上履きの惨状に眼鏡の奥の目を丸くする。
「くっくっく…この俺をコケにしやがるとは…織田の下僕どもめ、いい度胸だ…!」
「風紀に報告して処罰してもらうか?」
「生温し!」
血管が浮き出るほどに固く、拳を握りしめる。
「通り一遍の処罰なんぞ手緩いわ! 生まれてきたことを後悔するような制裁を下してくれる…! この俺を敵に回したこと、泣いて後悔しやがれ…!!」
「各務、おっはよー!!」
怒りの炎を燃やしていた俺の背に、ちょっとイラッとするくらい能天気な声がかかる。
振り返れば、倉橋なつきと、その取り巻きに成り下がった生徒会役員五人衆、そして一年坊の爽やかスポーツ少年と一匹狼。
朝っぱらから鬱陶しいKY集団に出くわした面倒臭さに、俺の眉間の皺がより一層険しくなる。
上履きの件だけでもこの上なく不愉快だというのに、これ以上厄介事を背負わせないでくれ…
「どーしたんだよ、そんなとこに突っ立って…」
靴も変えずに下駄箱の前に佇む俺を奇異に思ったのか、不思議そうな顔で、こちらに駆け寄ってくる倉橋。当然、金魚のフン…もとい、取り巻き連中も一緒に俺の方へとやってくる。
まずい、このまま織田にも見られてしまう。親衛隊の嫌がらせのことは、知らせたくなかったのに…
隠す間もなく、上履きの一件が倉橋達の眼前に晒される。
「あ…上履き…」
「おやおや…これはまた、随分と恨まれたものですね。少し、身を慎んだ方がいいんじゃないですか?」
「会長、横暴で傲慢だもんねぇ」
「どこでどんな敵作ってるかぁ、分かんないよねぇ」
顔を曇らせる倉橋とは逆に、薄ら笑いを浮かべる佐原と降矢兄弟。
てめぇら…倉橋が嫌がらせされてると聞いた時と、反応が雲泥の差じゃねえか。
「うわ、ひっでー…何だよ、これ!」
「…くだらねー…」
スポーツ少年は顔をしかめ、一匹狼は冷めた声で呟く。
一年坊主たちの反応の方が、よっぽどまともだ。ちったぁ見習え、ろくでなしの役員どもめ。
「『織田様に近付くな』、ね…」
いつのまにか床に落ちてしまっていたらしい脅迫状を、三木本が拾って読みあげる。
「会長。世界が違うって、こーゆーことだよ。努力とか友情だけじゃ、どーしたって埋めらんないものはあるんだって」
三木本は小馬鹿にするでもなく、少しさみしそうな顔で俺を見つめる。
「織田、友情ごっこなんかしちゃって、周りが見えなくなってたみたいだけど。結局、俺達と各務は、一緒になんていられないんだよ。いい加減、夢見るのは止めて、現実に帰ってきなよ」
「大袈裟なんだよ、お前は。こんなもん、洗って乾かしゃあっという間に元通りだ。気にするまでもねえよ」
正直なとこ、はらわたが煮えくりかえる思いだが、ここで動揺したり、織田との間に不和を生んでしまえば、嫌がらせした首謀者の思うつぼだ。
俺はあえて余裕の笑みを浮かべ、気にとめてもいないというポーズを作ってみせる。
「だから、お前も気にすんな」
顔を真っ青にしていた織田の胸を叩き、笑ってやる。
「…何で、そこまで…」
俺の反応に、三木本が何故か顔を歪め、苦しげな声を出す。
泣きだす寸前のようなその態度に、ドキリと胸が跳ねた瞬間、横から俺を呼ぶ声がかかる。
「申し訳ございません、各務様…!」
「桐嶋…」
いつの間にか出来てしまっていた人込みをかき分け、桐嶋が俺のもとへとやってくる。
「まさか、向こうがこうも早く動くとは……対応が後手に回ってしまいました。今回の一件、防ぐことができず、すみませんでした。我々の落ち度です」
「いや、気にすんな。高校生にもなってこんな下らない真似しでかす奴等の方が馬鹿なんだよ」
「下駄箱の方は我々で処理を済ませておきます。上履きは新しいものをご用意しましょうか?」
「洗って綺麗になるようなら、そのまま使っとく」
「かしこまりました。寮のキーパーに洗浄を依頼しておきます。明日までには完了するかと」
「悪いな、頼んだぜ。行こうぜ、マキ」
桐嶋にあとを任せ、マキをいざなう。
「でも、靴。どうするんだよ?」
「ロッカーに体育シューズが置いてあるから、とりあえずはそれを履いて…」
靴を脱ぎ、裸足で歩き出そうとした俺は、織田に腕を掴まれ立ち止まった。
「織田?」
腰を落とした織田に膝裏を掬われ、バランスを崩した俺は後ろに倒れ込む。
「なっ?!」
そのまま床に転がり込まなかったのは、織田の腕が俺の身体を支えてくれたからだ。膝裏と背中をしっかりと抱えられ、織田の身体に体重を預けるように傾けられる。
そこでようやく自分の身に何が起こっているかを把握して、俺は目を見開いた。
「な、何しやがる!!」
「…裸足だから」
「だ…だからってなあ! これはいくらなんでもねえだろ!!」
いわゆる、お姫様抱っこというアレだ。
可愛い女の子や、女みたいな顔をしたチワワ達がされるのならさぞかし絵になるのだろうが、180オーバーの俺が姫抱っこされるなんて、滑稽を通り越して、薄ら寒いだけだ。
「すぐ、連れてくから」
俺の抗議を無視し、織田はずんずんと歩きだした。
「あ、各務の靴とカバンは俺がちゃんと教室に置いておくから。ごゆっくり〜!」
マキが滅茶苦茶いい笑顔で手を振っている。こっそり写メっているんじゃねえよ、テメエ。