『彼』との付き合いは、高等部に入学したての頃。上級生数人に襲われかけていた望月を、たまたまその場面に遭遇した俺が助け出したことから始まった。

 体つきも頼りなく、権力の後ろ盾も持たない、一般出身の美しい外部生。そんな人間は、攻撃本能と性衝動を持て余した若い雄で溢れるこの学園では、奪われ貶められ、喰らい尽くされるのを待つだけの、惨めで哀れな存在に過ぎない。望月という人間は、狼の檻に放り込まれた羊も同然の存在だった。
 対して俺の方はといえば、幸いにして体格にも家柄にも恵まれたため、生徒達の攻撃対象にされるどころか、逆にもてはやされ崇め奉られる立場におり、多少我を張ったところで誰に咎め立てされることもなく、自分の望むがままに振舞っていた。俺は学園における食物連鎖の頂点に立つ存在だったのだ。

 望月を助けたのもそんな身軽さが可能にした、ただの気紛れからだった。通りかかった俺に気付きながらも望月が、涙に濡れたその瞳を、全てを諦めたように伏せたことが、どう言うわけか無性に癇に障って。気が付けば、彼を暴行しかけていた生徒等を殴り倒し、己の腕の中に細い身体をかき抱いていた。

『何かあったら、俺を呼べ』

 自分の携帯番号を望月に教えたのは、3度、同じことを繰り返したのちのことだった。一般出であるがゆえに、家柄の良い生徒等に表立っては逆らえない望月は、その後も幾度も発情した雄共の餌食として狙われ続けていたのだ。彼に情けをかけたのは、降りかかった災難を悄然と受け入れるしかできない哀れな姿を見かねてのことだった………その、はずだった。



 望月が俺を呼び、俺がそれに応えて。そんなことが、一体何度繰り返されただろうか。

 いつしか、望月を保護することが習い性のようになった頃、俺は校内の治安向上に多大な貢献をしたとして、風紀委員に推薦された。全くもって心外な話だ。俺はただ、非力な者を爪にかけるしか能のない、卑劣で卑怯な輩を排除していただけだというのに。
 正直なところ、学園の風紀改善にも治安の維持にも興味はなかった。何故、この俺が他人のために汗を流さねばならない?馬鹿げている……だが、彼を捕食者共の牙から守るには、風紀委員という権威と手勢を得ておいた方が、何かと都合がいいことも事実だ。ゆえに、俺はその誘いを受け入れ、常に腹をすかせた獣どもが屯する、このちっぽけな檻の守人となった。

 ただ、煩わしかっただけだ。望月がその瞳に絶望の色を浮かべるところを、この目にすることが。
 草原の羚羊のように無垢で無力な瞳が、獣の餌食となって曇るところを見たくはなかった………それだけ、だったのだ。

 …だが、いつからだろうか。その思いがねじくれ始めたのは。
 いつのことと、しかとは思いだせない。

 昼過ぎから降り続いた雨のせいで、むっとする湿気と、こもったような空気が肌に重くまとわりつく、不快で陰鬱な放課後であったことだけは、覚えている。
 いつものように望月に呼び出され、凌辱を受け乱されたあいつの姿を目にした、その瞬間。
 俺の心臓は、痛みすら感じるほどの高鳴りを覚えていた。

 滑らかな小麦色の肌、しなやかな筋肉のついた細い体躯、すんなりと伸びた長い手足、首筋にかかる艶やかな黒髪、うっすらと涙を湛えた黒目がちな瞳。
 それらを我がものにせんと喰らいかかる捕食者の姿を捉えて、俺の胸の内に湧き上がった感情は、かつてないほど激しい怒りと…そして、嫉妬。

 なぜ貴様が望月の肉を喰らおうとしている。誰の許しを得てそんな真似をしている。何の権利があって、そんなことを! それは………俺の、喰らうべき肉だと言うのに。

 胸を焼き焦がす感情のまま、過剰防衛とも取られかねない激しさで暴漢を叩きのめした俺に、望月が驚きの眼差しを向けてくる。
 だが、震える望月の姿を見て胸をよぎったものは、傷付いた彼を慰めようという思いやりではなく、その全てを引き裂いて、貪り、喰らい尽くしてやりたいという衝動。
 黒い瞳から溢れる涙を啜り、思うがままに啼かせて吐息を奪い去って、この獲物は己のものであるという証を、身体の一番奥に注いでやりたいという…浅ましくも、薄汚い思いだったのだ。

 身の内を荒れ狂う欲望に支配され、無防備に曝け出されたままの肌を貪ろうと、俺は手を伸ばした。
 この身に絡みつく湿った空気が、淫猥な匂いが、俺の中の獣の性を呼び起こす。
 望月の腕を掴んだ掌に、ぐっと力が篭る。

 …このまま、全てを奪ってしまおうか。

 誘惑に押し流されそうになった理性をかろうじて繋ぎ止めたのは、か細くも震える望月の呼びかけだった。

『朝霞…?』

 自分の腕を握りしめたまま動かない俺を、常より熱い掌に込められた力を、望月は何と受け止めたのだろうか。
 きっと、浅ましくぎらついているだろう眼に射竦められた望月は、身体を強張らせ、一瞬だけ目を見張ると…無意識に抗おうとしていた腕から力を抜き、初めて出会った時のように…その目を、伏せた。

 肉食獣に食われる寸前の、羚羊のような。
 人間としての尊厳を全て奪われた、奴隷のような。
 卑屈で、惨めで、哀れで情けなく、無様で醜悪、不快で目障りな。
 …ありったけの侮蔑を並べ立てても足りない、その姿。

 最も見たくなかった、その姿を。
 この、俺に……

 その事実を脳が認識した途端、俺の身体を支配していた熱は、悪夢から覚めた時のように、嫌な動悸だけを残して霧散した。
 そうしてこの身に残されたものは、途轍もない大きさの後悔と罪悪感。

 俺は、何をして。

 望月の、そんな姿を見たくない。ただ一つのその目的がために、今が、今までがあったというのに…


『…大丈夫か?』
『…平気だ、何ともない』

 内心の動揺をひた隠しに、何事もなかったかのように腕を引いてその身を起こさせれば、望月はほっとしたように微笑んだ。

『そう、か…なら、よかった』
『……ありがとう。いつも、助けてくれて』

 返された笑みと感謝の言葉に、俺は言葉を失った。
 こいつは、俺に何をされようとしていたのか気付いていないのか?
 いや、そんなわけがない。でなければ、俺にあんな惨めな恭順の態度を取るわけがないのだ。
 望月は、全てを理解した上で、俺に…

『時々、逃げ出したくなる。あんな風に扱われて、一人で対処することすらできない、弱くて、情けない自分が嫌で………だけど、朝霞がいるから。打算も、下心もなしに、人のために自分を省みずに尽くしてくれる、朝霞みたいな人がいてくれるから。だから俺は、救われる。何が起こっても、ここにいられるんだ』

 真っ直ぐな瞳が宿しているものは、揺らぎのない信頼。
 その想いはたった今、裏切られようとしていたばかりだというのに。

 それなのに、望月は、俺を…

 か弱く哀れな子羊を、守らなければ。
 敵の爪から。そして、己の牙から。

 この身を過ったあの穢れた欲望は、胸の奥底深くに封じ込めて、忘れてしまおう。忘れなければ、ならない。望月から向けられた信頼に、値する存在であり続けるために。
 そうして俺は、この想いを、衝動を隠した、はずだった。




「思い上るな、ねえ…なら、どうして毎回、毎回、息せき切って助けに来る?」
「委員長として、風紀が乱れる原因を放っておけねえだけだ」

 …だが、この瞳が俺を暴く。
 醜く浅ましい、俺の獣性を。


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