美術の時間に、まったく絵を描かなかったことがあった。

各々が校庭に出て、校舎の風景を描く写生の授業。私は何を思ったのか、そのとき筆洗いに溜めた水で色水を作ってあそんでいたのだ。
たくさんの黒を水に落とし筆で溶かしてゆく。水の中の絵の具の量は普段よりかなり多いのに、その濃度に負けず黒色はどこか透明だった。限りなく透明に近い黒、なんてどこかの小説のタイトルに似せた短文が思い浮かんで、そして次の瞬間、頭の中にブルーという単語が広がる。
私は出来心で、少量の青を指に取り水中に泳がせた。青は黒の中に潜り、まるで存在感はない。
けれどもその色はどうしてか特別に美しかったことを覚えている。だから私にとっては、その色をただの黒と名付けるのはあまりに惜しいと感ぜられたのだった。


記憶の中のその色はまさにいま、私の目前に鮮やかに広がっている。正確には私と、トオルこと石川透の目前に。ただあの時の筆洗器の水とは違い、青みがかった黒を背景にして、光がそこここに瞬き線を描いている。

「あ、また光った」

トオルが上空に向けた指先は、白い光が尾を引くのを指していた。それは一瞬で消えてしまうが、別の場所でまた流れ星が起こる。
夜空にひとつまたひとつと、流れてゆく星たち。

私たちは二人で流星群を見に来たのだ。



「それにしても寒いな。吉川、大丈夫か?」

私は黙って頷く。
服を何重にも着込み防寒したというのに、空気はとても冷たい。身体が冷えないように、できるだけ身を縮こめて毛布を被る。
トオルは同じく厚着で、腰まで寝袋に入ったまま荷物を隔てて私の隣に座っている。

夜中に二人きりで遠出をするにもかかわらず、私たちの関係に色気はない。
そういった要素を敏感に察知し身を固める私を、トオルは絶対に見逃さないからだ。
見逃さないのに拒絶したり避けたりせずに、私を尊重したまま傍にいてくれる。

トオルのような男は本当に珍しいと思う。信じられないくらい優しくて、その優しさに私はときどき怖くなる。
トオルは、どういうつもりでこの曖昧な関係を許してくれて、そしていつまで続けてくれるつもりなのだろうか。
私はいつまでトオルの隣にいられるのだろうか。

トオルに目をやると、真剣な顔で空を見上げていた。足元のランプに淡く照らさて闇に浮き出た横顔はいつものトオルではないように見えて、私は少し不安になる。
どこかに行ってしまいそうだなんて。


「トオル!」

嫌な予感をかき消すように小さく叫んだ。強めの語気に、トオルは驚いたようにこちらを見る。ぽかんとした表情を浮かべた後、どした?なんてのんきそうに声をかけてきた。
私は急に力が抜けて、なんと言っていいかわからず無言のまま首を振った。

不自然なくらい口数の少ない私を無理に喋らそうとするでもなく、トオルはとりとめのない日常のことを語ってくれる。
私はそれに耳を傾け時折相槌を打ちながら、まばらに光る流れ星をみつめていた。

私は信じられないくらい幸せだった。 いまだかつてないくらい穏やかで苦しみの無い、尊い時間が過ぎてゆくのを感じていた。


「流れ星に3回ねがいごとすると叶うって本当かな? 」
話が途切れるのを待って、私はトオルに話しかけた。

「俺さっきやってみたけど、3回とか絶対無理だわ」
苦笑するトオル。流星が瞬くのはほんの一瞬なのに、その間に3度もなんてとても無理だ。それにしても……。

「トオルはなにを叶えたかったの?」「ないしょ」

即答だった。私がふて腐れてケチと連呼しても、トオルはどこ吹く風といったふうだ。
ふと目が合い、そのとても綺麗なまなざしにどきりとする。私は少し期待した。トオルのねがいごとに私が関係してることに。
すぐにそんな自分の浅はかさに気づき、心の中でその身の程知らずな望みを掻き消す。

「じゃあ私もしよ。ねがいごと」

改めて空を見ると、星が先ほどよりも減っていた。たまに見える流星は数秒ですぐに消えるけれど、私はそれに構わない。
この時間がいつまでも続きますようになんて、そんな嘘を願うのは馬鹿だ。二人きりの夢みたいな時間は、この夜が終われば終わるのだから。私たちはまた日常に埋れ、きっと当分曖昧なままだろう。
この先私たちの関係はどうなるのか。離れ離れになるのは嫌だ。

腕時計を見るともう4時近かった。まだまだ空の色は暗いが、端の方が少しずつ白み始めているのがわかる。
朝が来れば私たちは家に帰らなければいけない。それでも、私は時間を止めてなんて思わない。この幸せでたまらないときを私はずっと大切にするし、忘れないでいられるから。
空が明るくなったらどんな色になるのだろう。きっとその色は、あの美術の授業の筆洗器の色水みたいに、私の記憶に残り続けるのだ。
私は夜が明けるのが楽しみでさえあった。

隣にいるトオルはいつのまにか寝ていた。
これからもずっとトオルの傍に居れたらと、今は強くそう思う。たとえそれがどんな関係でも。


流れ星がまたひとつ光り、その小さなきらめきは涙で滲んだ。私はなぜだか泣いていた。涙は滑らかに頬をすべってゆき、それはまるで長く尾を描いた流れ星のように思えた。私は精一杯祈り、願う。

何年後も、何十年後も、トオルと一緒に居られますように。

日が昇ったら、目が覚めたトオルとふたりで朝を迎えるのだ。私はこの星降る夜と、これからくるであろうまだ見ぬ朝の色をずっとずっと忘れないだろう。

もしも奇跡が叶ってこの先一緒にいられたなら、私はいつかトオルにこう尋ねたい。


流星の朝をおぼえていますか

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -