新書を手にして、自室の、座りなれた椅子に体を預ける。物語の、はじめの一文に少なからぬ期待をこめて表紙を開くのは、北原葵の癖だった。
 彼はしばしば、この世のどこかにある、ひとつの物語のことを考える。この世で最も美しい文章。その最初の一文は、未だかつて見たこともないような麗句でなければならない。凡ゆる語句を積みあげても及ばぬ、それでいて鋭い刃の一閃のように端的なひとひらでなくてはならない。
 儚い期待に緊張の息を吐きながら文庫をひらく彼の奇癖は、イデア信仰じみた完璧主義の質に由来する。
 葵が本を買うのは、実に二年ぶりのことであった。白い背表紙のつるつるとした、小さな文庫本だった。深夜の感傷的な脳で、何時になっても構わないから、今晩の内にこの本を読み終えようと彼は考えた。


 機械的に文字を追いながら、葵は一月ほどまえに少女と交わした会話を思い出していた。


 飯屋で飲めぬ酒を煽っていたら、テーブルの向かいに腰を下ろした者があるのが見えて、葵は顔を上げた。井浦基子だった。葵にとっての基子は、概ね学生服の少女の印象だったから、彼女の着ている女性然としたワンピースに、酔った頭を殴られたように感じた。
「びっくりした。何してるの。」
「北原くんが呼んだんでしょ。何いってるのよ。」
 送信済みのメールを確認して、葵は更に驚きを重ねた。彼がその場に呼ぼうと思ったのは、基子でなかったはずだった。いよいよ、酒が回っているようだとは思ったけれど、そこに座っているのが基子であっても構わないような気がしたので、葵はそうだったねと言った。
 その席にすわるはずだったのは、実際、井浦基子の兄だった。葵と基子が、互いの学生服の姿を知るのみの関係だと言い切れぬ、その理由。彼らの関係の、語り尽くせぬ余地が井浦秀だ。
 暫く他愛もない話をつまみにグラスを空け続けていたが、葵は、秀を呼んでしようと思っていた話を、基子に聞かせようと思った。もともと特別秀に聞かせる意味も無いような話なのだ。それに基子も、葵が何かの話を切り出すのを待っているように見えた。
「井浦さん、聞いてくれる?俺の話。」
 思ったよりも呂律が回っていなくて、眉を顰める。一見唐突なその言葉は、彼らのあいだではあまりに違和感がない。
 基子はうんと頷いた。


 昨日は午後の授業が休講で、まだ昼過ぎだったけど家に帰ることにしたんだ。
 駅の改札を通ったところで、発車のベルがなった。乗り過ごしても15分待つだけだったけど、間に合うかもしれないと思って走った。エスカレーターを駆け下りると、電車がドアを開けて待っていた。間に合うと思って飛び込もうとしたら、電車の中に緑色の頭が見えたんだ。井浦さんじゃないよ。…お兄さんだった。
 俺がそれで少しだけ驚いている内に、目の前でドアは閉まった。お兄さんもこっちに気がついたみたいで、窓ガラスの向こうで、あちゃーって顔、してた。楽しそうに笑ったお兄さんが、口パクでドンマイっていうのが見えたから、俺は睨むような顔をして、笑った。お兄さんがぷらぷら手をふって、電車は動き出した。
 息切れした俺はベンチにどかりと腰を下ろした。天気がいいけど、昼時だしホームは人も疎らだった。電車も出たばっかりだったしね。少し座ってたら、後ろから肩を叩かれた。振り返ったら、お兄さんだった。
 あ、そっか、来たんだ、って一瞬変な風に納得して、そのあと驚いた。
 え、秀さん今、電車。あー出たばっかみたいだな。惜しかった、惜しかった。いや…え、今きたばっかりですか。そうだけど。
 なんだか今見たものを口に出してはいけないような気がして、俺は黙ってしまった。なぜなのかは、自分でもよく分からなかった。
 それから次の電車がくるのを二人で待って、一緒に帰った。電車の中とか、帰り道、俺は会話しながらそのお兄さんを観察したけど、間違いなく井浦秀その人だった。アパートに帰って、ちょっとビクビクしながらドアを開けると、当然そこには誰もいなかった。少し安心した。家に入ったら先の電車で帰ったお兄さんと遭遇して、タイムパラドクスとかドッペルゲンガーとか、何かよくない事が起きるのじゃないかと、ちょっと思ったんだ。
 部屋に入るのを躊躇してた俺を秀さんは変な目で見たけど。
 ・・・実はね、これまでもそんな事が何回かあったんだ。学食でお兄さんに会って、飲み物をおごってもらって、あとでありがとうございましたって言ったら、そんな事してない、そもそもその時間は友達と外でメシ食ってた、って言われたり。



 基子は頷きながらその話を聞いていた。基子があまりに神妙な顔をしていたので、むしろ葵の方が面食らったほどであった。大概、基子も出来上がっていたのかもしれない、と今になれば思う。葵が口をつぐんでから、基子はその話を吟味するように、カクテルを飲んでいた。
「北原くん、お兄ちゃんの、どこがすき」
 少ししてから、言葉を選ぶようにして与えられたのがその問だった。葵は突然の質問に少し鼻白む。基子の兄と葵の関係のことは、基子にも知れていると分かっていたが、いざ口に出されると、多少酔いがさめるほど居心地が悪い。なぜそんな事を聞くのか尋ねたいところだったが悪酔いのせいでやや吐き気もしていたので、半ば捨て鉢な気持ちで葵は言った。
「真剣な話をしないところかな。」
「ふうん」
「……真面目な話とか、いい話でね、人に取り入ろうとしないところ。
価値観の押し付けが、嫌いなんだよあの人。だから議論も嫌い。あとね、」
 語り出したらきりがないようだと葵は思う。ぐわんぐわんと弛む視界と吐き気が、自分の口をなめらかにしていると思った。
 基子は葵の満足するまでその話を聞き続け、そしてすこし申し訳なさそうに、言った。
「それで、お兄ちゃんが何人もいるみたいだっていう話だったよね。」
 葵は基子の言葉選びにやや違和感を覚えたように思ったが、それを伝えるほどの体力はもはや彼にはなかった。空いたグラスと、テーブルの木目と、その上から降ってくる基子の言葉。
「あのね、実はお兄ちゃんは一人じゃないの。
何人もいるお兄ちゃんを北原君、好きでいられる?」
 葵はいよいよ胃の中身をひっくり返した。




 あの後世話を焼いてくれた少女と、哀れな飲み屋の店員に、終始謝り続けていたことを覚えている。一ヶ月経って思い出しても、葵は自分の醜態に顔を顰める。
基子があの時言った言葉は、どういう意図であったのだろう。自分の記憶の通りであれば、井浦秀は何人もいる、という趣旨だったはずだ。
 あまりに現実味のない言い様であったので、葵は先週まで気にしなかった。忘れていた。
 先週の夜、秀が二人のアパートを後にするまで。


 二年ぶりに買った本は、気がついたら最後の一ページを開いた状態で葵の手の中にあった。なぜ自分がこの本を買ったのか、思い当たったような気がした。基子の言葉が気道につかえて、うまく息が吸えないように思える。
 真新しい文庫本を床に叩きつけて思いっきり蹴ると、床を滑った本が壁にぶつかった。
 やり場のない感情に、涙を流すことしかできずに葵は思う。この本のページのようにザクザクと、俺から言葉を切り離したい。



ただの言葉にするほどこの気持ちは落ちぶれちゃいない

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