小説 | ナノ

――― 貴方の世界の住人になりたい。
 そう言って彼女は毒を飲んだ。創造主は薄っすらと笑みを浮かべて呟く。
――― それは本当に君を毒するのか。
 驚きに満ちた彼女の輪郭を彼の柔らかい指の腹が撫でる。
――― それは君に死を齎すものなかのか。
 つっと顎先を弾かれた。きゅっと閉じられた唇が小さな震えを産む。ここは海の中だったろうか。それとも空の遥か彼方だったろうか。何故だか肺に上手く酸素が取り込めない症状が彼女を襲う。以前として主は形の良い笑みを浮かべていた。
 何人たりとも住むことを許されない彼、赤司征十郎の世界に酸素は存在するのだろうか。誰も見たことのない彼だけの世界はどんな色をしているんだろうか。何度も何度も想像を試みた。しかし明確な答えは出てこないし、正解は誰も知らない。それ以上に彼女、名字名前の乏しい想像力ではその光景を思い描くことが出来なかった。

 彼のことを孤高の存在だと誰かが表現した。名字名前は実に的を得ていると思った。その反面、そんなことはあり得ないとも思った。あんなに周りに恵まれている人物を彼女は彼以外に知らなかった。友人と呼ばれる存在にも好敵手と呼ばれる存在にも、そして恋人と呼ばれる存在にも恵まれているのだから。
 彼女、名字名前は決して赤司征十郎の好い人ではない。彼女自身も彼とは良い関係であると自負してはいるものの、それ以上でも以下でもなかった。それなりに信頼しあっている仲で、それなりに秘密を隠し合っている。それだけのはずだった。
 何時の事だったか、彼と深く話す機会が出来た。彼はいつもの様に飄々とした態度で言葉を紡いだ。流れていくフレーズは彼女に寒気を齎す。彼の薄い唇は淡々と残酷な単語を生み出した。鮮やかな赤髪とは違う、何の熱を持たない冷たい欠片たち。冷気に触れる鼓膜は少しずつ痛みを感じだした。
「僕が存在する世界は誰もが決められた役を演じているんだ。まるで僕の手駒みたいだろう。実際問題、皆、僕の手駒に過ぎないのだから、なんの間違いもないはずなのに。偶に僕はそれがどうしようもなく哀しく、寂しくなるんだ。だけど誰もその事に気付かない。僕の心内はおろか、自分が僕の世界の『役者』でしかないことにすら気付かないんだ。誰も住むことはない更地に、馬鹿みたいに一人で佇んで。『そう』しているのは他の誰でもない自分だと知っているのに」
 耳を塞ぐための腕は彼に封じられているのかと思うほど、己の意思では動かせなかった。彼女は気付いたのだ。親しくしていると思っていた自分でさえも、彼の世界の住人にはなれていなかったことに。君は必要ない、要らない、入らない。そう言われているような感覚に陥った。
「こうして君に僕らしい言葉で話すことによって、僕は更に誰も入り込めないように世界を塗り固める。君はもっと深い所に住む僕を欲するんだろう。だけどもう手は届かない。あれも彼奴らも、気付いてない人間は幸せそうな顔をして日々を過ごしているのに、君だけは苦痛で顔を歪めるんだろう。僕が君を頼りにしているという言葉ですら、嘘で汚れたものに思えるのだから。自分だけでなく他に向けられた言葉ですら、心優しい君のことだから自分のことのように悲しむんだろう」
 じわりと目頭が熱を持ち始めた視界で、赤と橙のオッドアイが緩くカーブを描いた。彼の言葉に反論するはずだった台詞は散り散りになって彼女の体内に吸収される。ひくりと反応した眉間を弛めながら彼女は思う。『この世界』で彼以上に美しい曲線を描いて微笑む人間は存在しない、と。
 汗ばんだ掌で自身の膝小僧を撫でる。じっとりとした感触が80デニールのタイツ越しに伝わって、せっかく弛ませた眉間にもう一度深い皺が刻み込まれた。
「これは僕から君への警告だ。これ以上僕に干渉しないほうが君のためだ」
「…、そう」
――― 嘘つき。
 用意された選択肢は二つ以上存在していたのに、彼女の前に提示されたのは掴みやすい大きさになった一つだけ。そっと手に取るふりをして、そのまま宙に投げ捨てたのを彼は知っているのだろうか。知らないからこそ、以前よりも距離をとって二人は接しているのだろう。

 彼、赤司征十郎は以前より顕著に寂しそうな笑みを浮かべるようになっていた。それに気づいている人間は彼の言った、有能な『役者』しかいない世界には誰も居なかった。彼の世界から追放されてしまった彼女、名字名前は眉尻を下げて彼の綺麗に描かれた仮面を見つめる。
 勝利を欲して、勝利に溺れる。何事にも勝利を追求している彼は、勝ちに飢え、勝ちに溺れた獣だった。彼はいつも『勝利』に溺死していた。窒息死していた。けれども彼はいつも藻掻き苦しむことなく、訪れる死を甘受していた。誰に手を差し伸べること無く、淋しげな瞳のまま世界の終わりを見つめていた。
 彼女もまた彼の終わりを何の色も宿さない瞳のまま見つめていた。彼が手を差し伸べたのならば、彼女はその手を握り返しただろうか。否、それはなかっただろう。彼の見えなかった『ソコ』を垣間見た彼女が再び彼のことを想えるかと問われれば、答えなんて自ずと見えてくるのだ。
「最近赤司っち雰囲気やわらかくなったっスねー」
 なわけない。彼女が一粒、チョコレートを口に含む。
「確かに。みんなを見る目が優しいもの」
「まあ言われてみればそうなのだよ」
 違う、色がないだけだ。口に含んだものを舌で転がす。
「あれでメニューが殺人的じゃなかったらなあ」
「そんなの赤司くんじゃありませんよ」
 そのとおり。『あれ』は赤司征十郎であって赤司征十郎ではない。じんわりと舌の上に広がるカカオが彼女の鼻腔を通り抜ける。
「名前ちんはどう思う?…ってあらら〜、チョコレートのにおいがする」
「んー…、敦くんも食べたい?」
「食べるー」
 紫色を纏った彼に見透かされるかと思った彼女の肩は不自然に跳ねた。幸いそれは杞憂に終わった。ふわりと彼女から香ったカカオによって彼の気は紛れたのだ。
 紫原は彼の言う『役者』の中でも、彼に近い存在だと名前は思っている。無論、彼から役者がどうとか世界がどうとか聞く前までは彼と目の前の彼は、親しすぎる仲だと思っていた。肩の辺りにぐっと感じる人の重みに苦笑いを浮かべながら、一人思いを馳せる。
――― ここで彼の話をしている『皆』は、彼の世界の住人ではない。

 夏にはまだ明るかった時間帯も、冬になれば太陽はあっという間に沈み、辺りに闇をもたらした。部活動の終了時間もそれにともなって早くなった。彼女や彼らが所属するバスケットボール部も例外ではない。いくら強いとはいえ、学校の規則を守ってこそ、学校の看板を背負い、名を馳せることができる。さらに言えば、今は期末テスト期間中。原則は禁止されている部活だが、ここだけは学校側からの配慮により練習する時間を与えられた。しかしながら皆学生。本分は勉強にある。勝利に飢えたものも、そうでないものも、皆一律の時間に帰宅準備をはじめた。
 もちろん名字名前もだ。マネージャーの方が若干ではあるが終了時間が遅いため、顧問からは常に鍵当番を命じられている。皆が体育館にいないことを確認し、最後に部室の鍵を閉め帰宅するつもりだった。部室の前に立った時までは。
 僅かに開いた扉から細く陽光が漏れている。電機の消し忘れだろうか。それとも誰かまだいるのだろうか。控えめにノックをし、申し訳程度に声をかけるも反応は一切返ってこない。普段ならば反応があるまで決して扉を開けないのが名字名前だが、今回はそうとも行かない。今日は見たいテレビがある。彼女だって普通の女子学生なのだ。
「入っちゃうからねー…」
 きぃ…っと小さな音を立てながら扉は開く。薄暗い場所から蛍光灯がさんさんと灯る場所に移ったため、彼女の視界は少しだけ細まった。その細い世界でもそれは確認できた。
「な…、赤司く、ん」
 そこに佇んでいたのは紛れも無い赤司征十郎だった。しかしその姿に彼の威厳も何もなく、頭を垂れて小さく震えていた。
 泣いている。直感的に名前はそう思った。あの『赤司征十郎』が、常に人の上に立ちながら人を見下していた奴が、誰もいない部室で一人肩を震わせている。誰も寄せ付けなかった人間が弱々しい姿を己に晒している。
 ゴクリ。彼女の喉がなる音がいやに響いた。じわりと自身の征服欲が満たされていく気がして、彼女の口端がひくりと釣り上がる。
「赤司くん」
 頭を上げたものの、振り向かない。弱さに崩れ落ちた己を見せまいとする姿は、彼の中に僅かに残された自己防衛からだろうか。
「赤司くん」
 ぴくりと肩が弾む。彼の耳に彼女のソプラノはきちんと届いている。
「赤司くん」
 彼女の耳は己の心音が大きく響いている。鼓膜の直ぐ側に心臓が居るのではないのか。そう錯覚するほどに、だ。
 くしっと一度だけ目元を拭った彼が、驚きと優越感に満ちた表情をした彼女を捉える。生唾を飲み込むような音は一体どちらの喉からなったものだろう。
「なんだ、名字か」
「私だけど…、どうしたの」
 期待に濡れた問いかけは、不気味な音を立てて空気を揺らす。たった5文字の中にどれだけの感情や期待、疑問が組み込まれているのだろうか。心配そうな瞳を作る彼女の手の平がじっとりとし始めた。
「何もないよ」
「本当に」
「…いや、君には話しても平気か」
 人が諦めを滲ませた表情というのは、微笑みに近いものがある。彼もまた微笑に似た諦めを見せた。
「見えないんだ、左目が」
 彼の世界は誰も住めない、『役者』しかいない、塗り固められた孤高の世界だった。しかし其処は断崖絶壁だった。少しでも脚を踏み外せば、深い闇に堕ちていく。彼はその闇に誰かが近づいてしまわぬように、いつも高すぎるバリケードを作り、己だけがその闇と戯れていたのだ。
 彼女の小さく細い声帯は驚きの声すらあげることを忘れていた。ひゅっと鳴った空気だけが彼女の意思表示だった。チャームポイントだと言っていた、まあるい瞳は今にもこぼれ落ちてしまいそうで。手の平の汗が一気に不快なものに変わった。
「見えないといっても生活に支障はない。だがバスケにはどうしても影響が出てくる。それがどうしようもなく悔しくて泣いていたと言えば、君は納得するか。それとも同情するか。もしくは…、小馬鹿にでもするか」
 夕焼けに照らされた赤は燃えるようなものに変わる。それなのに赤の持ち主はふっと自嘲に似た表情を浮かべるのだ。
 彼女の心臓がきゅっと摘まれる。もしかするとこれは彼の『世界』にいるだけかもしれない。もしかしたら彼は今、可哀想な少年という役を与えられた『役者』かもしれない。彼が泣いていたことは事実なのに、疑心暗鬼に陥ってしまっている彼女はそう簡単に彼の言葉を肯定も出来なかった。かと言って否定も出来なかった。
 乾ききった口内を潤すために、態とらしく音を立ててつばを飲み込む。もちろん彼女の乾きはそんなものでは潤わない。
「その言葉にどういう反応をしたら私は赤司くんの世界の人になれるの」
 二人分の闇が壁まで伸びてじゃれあう。彼は相変わらず神々しいまでに夕暮れに照らされている。それはきっと彼女も同じなのだろう。反応のない彼を見据える彼女の瞳が、眩しさですうっと細まった。
「僕がどう答えれば君は満足するんだい」
 自嘲の笑みは深くなった。笑っているのに、目を細めているのに、肩を震わせているのに、眉根は寄せられて苦しそうな印象を受ける。もう一度彼女の心臓は摘まれた。
「じゃあ言葉を変える。赤司くんの世界の『住人』になりたい」
「…君は本当に馬鹿なんだな」
 一歩ずつ、彼は彼女に歩み寄る。すぐ側まで彼の顔がやってきた時に、彼女は苦しげな表情の意味を知る。ただ苦しげに笑っていたんじゃない。泣くのを堪えていたのだ。少しずつ色を失っていく彼の双眸がゆらり波を打つ。
――― やっぱり、この人は寂しかったんだ。
 どうしようもない加護欲が彼女の腕を彼の背中に回した。途端に彼の世界が少しだけわかった気がした。すんと鼻腔をくすぐった彼の匂いと制汗剤の香りに妙な恥ずかしさを覚える。彼も彼の世界も複雑なものだと思っていたのに、実はこうして交じり合った香りのように身近でずっと単純だったのかもしれない。

 彼女は彼の世界をわかったふりをして歩きまわる。彼はそれを甘んじて受けれる。彼が突き放したあの日から格段と離れていた距離が、傍目で見て分かるほど近くなった。
「最近名前っちと赤司っち仲良しっスねえ」
「確かに妙に距離が近い感じはしますね」
「なんだアイツら付き合ってんのか」
 くすり。然もおかしげに彼女が笑う。右隣に感じるのは心地より温もり。
「そういうのは本人たちに問え」
「ミドチンってすーぐそうやって怒るー」
「じゃあ私聞いちゃおうっかな〜」
 ドリンクを配り終えたらしい桃井が彼らの会話に参加する。年頃の男女というのは他人の恋愛事情が気になりやすい。さらに彼らは思春期真っ盛りだ。さほど親しいとも言えなかった二人の距離が妙に近づいている。それが何を意味するのか、深読みして楽しみたい頃なのだ。
 先程から聞こえる彼らの会話に彼女が堪え切れないとばかりに小さな笑いを零す。それに気付いた彼が左隣の彼女を見下ろし、何がそんなに楽しいのかを問う。その表情は幾分か柔らかいものに思えた。
「私と赤司くんが付き合ってるんだって」
 のは、勘違いだろう。
「…馬鹿どもが」
 彼らの間に『愛おしい』という感情は働かない。彼が彼女を見つめる瞳も、彼女が彼を見つめる瞳もそれに酷似した感情はあるものの、決して恋愛感情まで辿り着くことはない。
 呆れたように小さな溜息を漏らした彼の隣で、彼女は未だに肩を震わせている。密接に見えた二人の間には深い闇が蔓延っていた。

 あの日と同じような夕焼けの下、彼は己のことを終焉の傍観者だと言った。初めこそ驚きはしたものの、彼女は妙に納得したような顔付きで「そう」とだけ相槌を打つ。二人分の影はあの日以上にじゃれ合い、肩を並べていた。
「何も言わないんだね」
「赤司くんが突拍子な事を言うのはいつものことでしょう」
 二人分のコンパスは同じ長さを保ちながら歩を進める。さも当たり前のように、彼女は彼の左側に立っていた。そこから覗いた瞳は少しだけ伏せられた。「そうか…」という呟きの後に続く言葉はなかなか聞こえない。けれども彼女には何となく分かっていた。まだ彼の言葉は続くのだと。
「…じゃあ、もうすぐ僕の創った世界が壊れると言ったら君はどうする」
 彼は彼女に問いかける。先程よりも驚きを見せた彼女の表情に彼は満足そうな笑みを浮かべた。
「……よく、わからないかな」
 足元に転がっていた小石を弄ぶ。ころんっと車道の真ん中まで逃げてしまった時、彼は「すぐにわかるさ」とだけ言葉を落とした。

 終焉はあっという間にやってきた。きっかけは何だったのだろうか。彼女がそのきっかけを見届ける間もなく、目の前で彼の世界は崩れていった。
――― せっかく彼の世界の住人になろうとしていたのに。
 散り散りになっていく光の中で彼女は一人肩を落とす。あまりにも自己中心的な思いに乾いた笑いしか出てこなかった。彼が言っていた終焉とは、この事だったのだ。一人、また一人と光も影も消えてしまった。そうして彼はまた涙を流しているのだろうか。
 彼女が足早に向かった場所はあの日と同じ部室だった。前回とは違い、入室許可を伺うこと無く扉を開け放つ。
「赤司くん」
 夕焼けに照らされることのない夜。暗闇に寄り添うように彼が佇んでいた。
「…来ると思ったよ」
 だけど、彼女の予想とは違い彼の赤く透き通った瞳からは何の滴も零れていなかった。泣いていた後もない、泣きそうな気配もない。ただただ彼は貼りつけたような笑みを浮かべて、彼女に手を差し伸べた。
「いらっしゃい、僕の世界へ」
 深いアイ色がそこには滲んでいた。その手を取ってしまえば戻れなくなると警鐘が鳴る。だがもう何もかも手遅れだった。彼女は自ら服毒し、彼の手を取る。全て毒されてしまっていたのだ。
 握りとった彼の手は、生きているのか死んでいるのかわからないほどに冷たかった。「冷たい」と彼女が眉を顰めると、彼は綺麗な笑みのまま「心が温かいからだろう」と返した。
 彼の世界の第一幕がそっと終わりを告げた。

 


 彼らの鼓膜に響く言葉すべてが柔らかいものに変わった。彼女は「はんなりしますなあ」と無邪気な笑みを浮かべていた。もちろん正しい遣い方ではないが、彼はそれに応えるように「そうだな」と言葉を溢した。
 相変わらず彼は孤高の存在で、此処では唯一無二の王様だった。彼にはたくさんの従者という『役者』ができた。彼にとっての二番目の世界。相変わらず彼女は唯一の住人だった。
 彼の左目は以前にもまして見えづらくなっていた。綺麗だった赤色は次第に色味を失っていく。彼女が全てをカバーするように左側に立つのも変わらずだった。彼の中にある『特別』を心の底から堪能しているようにも見えた。呼び方も「名字」「赤司くん」と呼び合っていた仲から、「名前」「征十郎くん」と名前で呼び合うようになっていた。しかし相変わらず二人の間に恋慕も愛情も生まれなかった。高校生活はゆっくりと過ぎていくものだと思っていた。

「やっぱりキミは赤司くんの元に行ったんですね」
 久方ぶりに会った、かつての仲間からの言葉に彼女の肩は大袈裟なぐらいに跳ねた。彼の瞳とは違うアイスブルーは体の芯から冷えてしまうような感覚に陥る。何もかもを見透かされている。そう彼女が思ってしまうのも致し方なかった。
「赤司くんとは付き合っていたんでしたっけ」
「…征十郎くんとは付き合ってないよ、ずっと」
 張り詰めていた空気がふっと緩まった。「知ってましたよ」と言った彼がゆるりと笑ったからだ。
「キミたちの間にそんなものが存在していないことなんて知っていましたよ。僕らのことをただの駒としか思っていなかったのも何となく分かってました。キミが盲目的に彼のことを想っているのだって、バレていないのは彼らのうち数人でしょう」
 アイスブルーは伏せられる。なのに体中が恐怖を訴えているのだ。
「そろそろその耳を塞いだ手を離してください。一度くらい僕らの声を聞いてください。彼の声にばかり傾けるためにキミは存在してないんです」
 彼女の頬につうっと涙がつたった。「もうやめて」というか細い声は何処に届いたのだろうか。アイスブルーは冷たいまま、けれども苦しげに歪む。
「キミ次第なんです」
――― 重くのしかかる言葉に彼女の心が悲鳴を上げた。
 征十郎くん、征十郎くん、征十郎くん。彼女の頭を巡る言葉はそれ一色だった。ぱたぱたと足音を立てて戻ってきたのはあの日の部室と酷似した控え室。走ってたきた勢いそのままに扉を開け放つも、中には彼はおろか人っ子一人いなかった。
 取り残されてしまった。アイスブルーの忠告も聞かなかった愚か者は、彼の世界を分かっていたつもりだっただけだったのだ。やはり何人たりとも触れられない場所に彼はいるのだ。どうしようもない不安と哀しみが彼女の体を襲う。
「やっと戻ってきたんだな」
 背後から聞こえてきた声に彼女の体の緊張が解ける。ここで正解だったんだ。安堵感とともに零れてくるのは先程よりも温かみを帯びた涙。「ごめんなさ、」うまく言葉が紡げない。「ごめ、な、さ」謝罪しなければならないのに。
 柔らかい足音はそのまま彼女の体を包み込んだ。赤子をあやすような手つきにゆっくりと凍らされた心も溶かされていく。
「黒子くんに会ったの」
「そう」
「征十郎くんの側にいるのをやめろっていうの」
「…そう」
「でも私は間違ってないよね」
 不安に色をつけるとするならば、きっといまの彼女の瞳を言うのだろう。涙に濡れた双眸は彼の形の良いオッドアイを真摯に見つめる。
―――そうだ、あの日から後戻りはできないのだ。
 そっと彼女の頬に彼の手が添えられる。それに反応するかのように彼女が顔を赤らめる。
「君が思う世界が僕の世界なんだから、何も間違っていないさ」
 ゆっくりと互いの口吻が近づく。柔らかいけれど、すこしだけがさついた表面が妙に人間味を帯びていた。彼女が二度目の赤面を果たす。二つ分の唇は名残惜しげに離されていった。絡み合う視線は何処か艶かしい空気を持っていた。
「僕たちは正しいんだ」
 重ね合わさった二つの手の平に二人分の未来を乗せる。扉から細く漏れる人工的な光は霞んだものとなって彼女の瞳に映る。彼の世界はまだ第二幕が始まったばかりじゃないか。まだ彼の世界の全てを知ったわけではないのだから。
 彼の温もりを刻みこむように指の間をなぞる。彼女の眼に赤司征十郎の底はまだ見えていなかった。

――― これは貴方に溺れるための毒ですから。
 そう言った彼女の口の端から透明な液体が漏れる。飲み干せなかった毒は彼女を表面からも侵食した。
――― 君は馬鹿なんだな。
 創造主はゆっくりと彼女の口元を拭う。唇の輪郭をなぞり終えた親指は、そのまま彼の口内へと吸い込まれた。
――― 大丈夫、まだ終焉は訪れないよ。
 ぐにゃり、世界が歪む。二人分の息はそこで途切れた。

正解の世界
赤い糸と結んだアイビー様 提出
HappyBirthday!!/121220(莉乃)

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