不安なんて、





「一時的な記憶喪失ですね」


医者の言葉を、隣に座る母親が不安そうに聞いていた。


大した怪我はしてないけど、
体を強く打ったということで数日間だけ
入院することになった。
俺は全然元気だし、今すぐテニスだってしたいのに。

昨日、事故の直後に病院に駆けつけてくれた先輩たちが、
俺の記憶が混乱してることを家族に伝えたらしい。
俺はというと、記憶喪失って言われても
事故に遭う前と何も変わってない気がするし
先輩たちのことも家族のこともちゃんと覚えてるから
どこか他人事みたいに医者の話を聞いた。


「記憶喪失といっても、かなり特殊な例ですね。
特定の人物のことだけを忘れているというのは」

――特定の人物。

昨日、病室に飛び込んできた、
えーっと…跡部さん、だっけか?
俺はその人に関する記憶だけを忘れているらしい。


「それで先生、赤也の記憶は元に戻るんでしょうか」
「しばらくの間は様子を見ましょう。
思い出すのはすぐかもしれないし、数年後かもしれない。
記憶喪失には、これといって確立した治療は無いので」
「そう…ですか」
「事故のショックによる一時的なものだと思いますので、
とにかくしばらくは安静にしていてください。
赤也くん、君も気持ちを強く持つようにね」
「……はぁ」

別に、弱ってなんかねぇんだけど。
なんだか、自分のことじゃないみたいに感じた。



「それじゃ赤也、おとなしく寝てるのよ。
お母さんまた夕方来るからね」
「いいって別に。なんともねぇんだから」
「……赤也」
「なに」
「ほんとに、跡部くんのこと忘れちゃったのね」

そう言って複雑そうな顔を向けられる。

「…俺と跡部さんってそんなに仲良かった?」
「そりゃあもう。アンタ、いつもいつも
跡部くんの話ばっかりしてたんだから」
「いつも?」
「そうよ。跡部さん跡部さんうるさいくらい」
「……」

いつも話してたなんて、きっと仲がよかったんだろう。
だけど俺は、そんな人知らない。
昨日までの俺の記憶の中に、跡部さんなんて人は存在しない。


「じゃあね赤也。跡部くんのこと思い出せそうなもの
後で持って来てあげるからね」


――自分のことじゃないみたいで怖かった。




「あー、クソ。暇すぎだっつーの」

別に体調が悪いわけでもないのに、
ベッドでじっとしてるのは退屈だった。
こっそり抜けて部活行こうかと思ったけど、
今日は部活が休みだってことを
さっき柳さんがメールで教えてくれた。


「まぁせっかくの休みだし、」

そこまで言って言葉を止める。

――あれ?そういや俺、部活がないときって
いつも何してたんだっけ。


なぜか、ここ最近の休日のことが思い出せない。
自主練してたっけ?
家でゲームしてたっけ?
先輩や友達と遊んでたっけ?
それとも、


誰かと、一緒に居たっけ?


「…痛っ!」

そこまで考えると、突然頭が痛くなった。
ズキズキと走る鈍い痛みに、思わず
体を起こして頭を抱える。


――思い出せない。



「…切原!!」


必死にその痛みに耐えていると、
突然自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。

「…あ、れ…アンタ」
「どうした、痛むのか!?」


入り口に立っていたのは「跡部さん」だった。
血相を変えて駆け寄ってくる。

「頭が痛いのか?」
「っ…へーき」
「待ってろ、医者を呼んでくる」
「!や、待って…ッ」

――これ以上、病人扱いされてたまるか。

慌てて扉へ向かうその人を追いかけようとベッドから降りると
また立ちくらみがして、体がふらついた。
とっさに、目の前のその人の服をぎゅっと掴む。

「!切原」
「大丈夫…ッスから」
「………」
「ちょっと痛かっただけだから」

必死にそう訴えかけると、その人は渋々足を止めた。




「もう痛くねぇか?」
「…はい」

跡部さんは、俺をベッドに寝かせてくれた。

「本当に痛くなったらすぐ医者を呼べ。
我慢なんかするんじゃねぇぞ。いいな、切原」

小さくこくんと頷くと、
少しほっとしたような表情を見せた跡部さんは
鞄の中から何かを取り出してベッドの脇のテーブルに置いた。

「あの…なんすか?それ」
「見舞いだ。気が向いたら食べろ」
「えっ」
「じゃあな」

それだけ言うと、跡部さんは扉の方に向かった。


――待って。


「…え?」

一瞬、心の中で、行かないでという感情が芽生えて
俺は少し戸惑った。

俺が何も言えないうちに、跡部さんは
振り向きもせずに部屋から出て行ってしまった。


ぼんやりと扉を見つめていると
すぐにガラリと開いて先輩たちが入ってきた。

「よ!赤也」
「どうだ、具合は」
「先輩たち!全然へーきッスよ」

笑ってそう返すと、先輩たちも安心したように笑った。

「お、なんだこれ」
「ああ、それはさっき…跡部さん、が」
「跡部来てたのか?」
「すれ違わんかったのぉ」

丸井先輩がテーブルに置いてある箱を手に取った。

「お菓子じゃん、うまそー。ほらよ赤也」

先輩から箱を受け取って見ると、チョコレートだった。
しかもなんだか高そう。

「高級菓子か。さすが跡部だな」
「食べるか?赤也」
「あ、はい」

あーんと口を開けると、柳さんが
ひとつ取って口に入れてくれた。

…おいしい。

だけど、何か不思議な感覚がした。


「どうしたの?赤也」
「ん…なんか、食べたことないのに
この味知ってるような気がしただけッス」
「…そう」

幸村部長は、呟くように返事をして、話題を切り替えた。

「記憶の方はどう?跡部のこと、何か思い出したかい?」
「いえ…全然ッス」
「そっか」
「あの、跡部さんってどんな人なんすか?
お見舞い来てくれたけどお菓子だけ置いて帰っちゃって」

何気なくそう尋ねると、幸村部長は
少し微笑んで黙ってしまった。
どうしたんだろ、と俺が首を傾げると
代わりに丸井先輩が喋り始めた。

「あー赤也、跡部ってのはさ、なんつーか
金持ちで俺様でやたら偉そうな奴だぜぃ」
「おれさま?」
「そ。まあでも、そのことを文句言えねぇくらい
テニスも上手いぜ。何よりアイツは、赤也のこと…」
「ブン太」

丸井先輩が跡部さんのことを教えてくれようとすると、
幸村部長がそれを遮った。
名前を呼んだだけなのに、威圧するみたいな言い方だった。
部長が丸井先輩の方をゆっくり見つめると、
丸井先輩はびくっと一瞬怯んだように見えた。


「ねぇ、赤也」
「幸村部長…?」

部長は、白くて綺麗な手を俺のほっぺたに添えた。



「無理して思い出すのは体によくないよ。
きっと自然に思い出せるから…ね?」



部長は、いつもみたいに優しく笑った。

なのに何故か、理由は分からないけど
その微笑みが冷たいように見えてしまって。
いつもの部長じゃないみたいに感じてしまって。
俺は、小さく頷くしかなかった。

隣で仁王先輩が、幸村部長をじっと見つめていた。




その後は、先輩たちとくだらない話で盛り上がったり
何事もなかったみたいにみんなで笑った。
やっぱりみんなでいると嬉しい。

すげぇ楽しくて、俺は、さっきの幸村部長は
きっと気のせいだと思った。




「お、もうこんな時間かよ」
「喋りすぎたようですね」

時計は、午後6時を指してた。
せっかくの休みなのに、先輩たちは
ずっと俺のところに居てくれた。

「そろそろ帰るか」
「そうだね」
「赤也、明日は部活があるから
面会時間に間に合わないかもしれない」
「いいッスよ、俺もう大丈夫っすから!
もしかしたらもう退院できるかもしれないし」

笑顔でそう言うと、幸村部長はまた頭を撫でてくれた。

「退院できそうなら、俺たちに連絡ちょうだいね。
みんなでご飯でも行ってお祝いしよう」
「お、おおげさッスよー!たった数日なのに」
「そんなことないさ。赤也が元気にならないと
俺たちだってすごく寂しいんだから。ね、真田」
「何故俺に振るのだ、幸村」
「昨日、赤也のこと心配で食事も喉を通らなかったくせに」
「なっ…た、たわけがッ」

取り乱す真田副部長にクスリと笑って、
幸村部長はまた俺を見て言った。


「だから早く戻ってきてね…俺たちのところに」



頭を撫でる手は、ほんとに大切なものを
扱うみたいに優しくてあったかくて。
やっぱり幸村部長は、優しいなと思った。


その日は、自分が記憶を失ってることなんて
すっかり忘れて、気持ちよく眠れた。



――不安なんて、ちっとも感じない。

俺は幸せ者だ。





つづく

2012.11.24

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