マスターの名前が好き。名前さん。名前。反芻してはどきどきする。マスターは古臭いから嫌いだって言っていたけれど、綺麗で素敵な名前。マスターの声が好き。少し鼻声なのも、ちょっとだけ滑舌が悪い所も好き。私よりもずっとずっと、綺麗な声なの。マスターの顔が好き。くりっとした目も、ふにふにの頬も、薄い唇も、好き。あの長い睫毛に、触れたい。マスター、マスター。マスターの全部好き。マスターの事で頭がいっぱい。歌を歌うのも、笑うのも泣くのも、全部彼女の為。

愛おしくてたまらない。



「さてとミクちゃん」

「はい」

「離しておくれ。私はお仕事へ行かなければいけないのだよ」

「大丈夫です」

「何ひとつ大丈夫じゃないです」



マスターの腰(最近ちょっとだけ太った)(それでも好き)に抱き付いてから、もう二時間が経っていた。時計の短い方の針は10を指しているし、朝、私が入れた珈琲はとっくに冷めている筈。頭上でマスターが溜息を吐いたから、少しだけ罪悪感に苛まれる。ああ、そんな顔しないで。

寂しいと素直に言えたらどんなに良かっただろうか。愛しい人に素直になれない位には、私も乙女なのだ。こんな幼稚な行動でしか、愛しい人一人、引き留められない。自分の無能さに辟易する。それでも、私は、マスターが大好きなんです。



「ミクちゃん」

「はい」

「会社に電話してくるから離しておくれ」



渋々、マスターの腰から手を離すとどんどん温もりが冷めて行く。それがまた寂しくて、こんなに近くにいるのに怖くなった。マスターの世界は私だけじゃないんだ。だから離れたら、マスターが何処かに行ってしまう。私を置いて、遠くに。ああ怖い。怖い。怖い。マスター。側にいて。



「ミク」



マスターが私の名前を呼ぶ。それだけで宙に浮く。



「仕事休み貰ったからさ、今日はゆっくりしよう」



ふわふわと揺れる。不安が消える。世界で一番愛しい人。大切な人。お昼ご飯は私が作りますね、そう言えば、マスターは頬を綻ばせた。




彼氏がいなくても女の子はしなないよ?
(それでも恋をしていたいのです)

***
この子と同じ子。
Title:にやり

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