■ 第一釦から始めます
かつん、と高いヒールが踏み込んだ床の硬い石を叩く音を男は耳聡くも聞き付けたようだった。微かに反応があったことを確認しながら歩みを進める。足音を殺すことなく歩く私に向けられる視線は特段ありはせず、皆仲良く無視を決め込んでいる。
立ち止まるのは一つの檻の前。ここ、最下層のレベル6に最近入ってきたとある囚人がいる場所だ。
「こんばんは、サー」
「……」
声を掛けた私に返されるのはちらりとした視線のみ。綺麗な金の瞳はすぐに伏せられて目蓋の奥に隠されてしまって、私をそこに映し込むことはない。
まぁ、囚人たちからすれば当然の態度なのだと思う。だって私はインペルダウンの看守なのだから。それにしたって無限の退屈が与えられるレベル6には看守も滅多に来ないから、退屈凌ぎに少しは構ってくれたっていいと思うんだけど。せめて何か返事をしてくれるだとか。
「退屈にも退屈してきたところじゃない?」
尚も話し掛けてみても無反応。元砂漠の英雄様は砂漠の夜のようにだんまりをするのがお得意らしい。気に入らないから持っていた鞭を檻の中に差し入れて顎を掬い上げてみる。本来なら“自然系”の能力で触れもしないところなのだろうけど、インペルダウン特製の海楼石の手錠はしっかりとその能力を封じてくれている。
無理矢理に上げさせた形のいい顎、それが描くラインをうっとり眺めそうになるのを抑えて、私はまた一歩檻に近付く。署長なんかは危ないからあんまり近付くなとか何とか煩いけど、ここまで無力化された囚人に一体何が出来るというのだろう。私だってただのか弱い女子という訳でもない。
ブーツの爪先を檻の隙間に突っ込むようにして、私は空いた左手で柵を撫でる。冷たい金属の感触はぞわりとした震えを起因させた。本当に触れたいものはきっと全然違う感触だ。だって目に映る様ですら、全くもって異なり過ぎている。
「…私は話相手には不足かしら」
「──………※※※」
漸く押し出されたその一息は、ざらりと空気と私の鼓膜を削るように撫でた。あぁ、と半ば感嘆のような声すら漏れそうになる。
懐かしい。胸の奥が疼いて、堪らない衝動が溢れて出そうになる。それを宥めて賺して、私は平静そうな貌を装う。
「どこの小娘かと思ったがお前だったか」
「…そうよ。覚えていてくれたなんて意外だわ」
「こんなところで何をしてる」
「何って──」
何をしてる、なんて。そんなこと決まっているのに。答えなんて一つしかないのに。
でもきっと彼には、私の返答は余りにも突拍子もないものなのだろう。
「貴方が言ったのよ、10年経ったら出直してこいって。ねぇ、私…貴方のお眼鏡に適うような女になった?」
鈍い金色が微かな驚きを孕んで私を射止める。10年経って私はやっと少女から女と呼ばれ得る歳になった。それでもまだまだこの人にとっては小娘でしかない、そんなことは苦しいくらいによく分かっているけれど。
ゆっくりと鞭先を退けさせた手──の代わりを成している鉤爪がゆるりと伸びて、私の手に触れるか触れないかのところに差し向けられる。でも次の瞬間にそれが触れたのは、看守服の一番上のボタンだった。
緩やかに力が込められて、ボタンを止め付けている糸がぶつりと千切れる音がする。安っぽい金属音を立ててそれは床に転がり落ちた。
「…こんなところまで追ってくるとはな」
「私の職場に捕まった貴方がたまたま来ただけよ」
その鋭い爪先が今度こそ、私の手首をしっかりと捉えた。強引に引き寄せられて檻に体がぶつかる。でもそんな軽い痛みなんて、今の私にはまるで感じられなかった。
檻越しにもどかしく触れ合う熱と熱
13.10.15
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