走っ た  。


小平太の、僕を呼びとめる声がした気がしたがもう訊いてはいない道は訊いてないが何となく間違ってはいない気がした全てが曖昧だ僕の心もあの子の傷の具合ももがくように走る僕の足どりも何もかも、が。
森の木々の枝先が躰を切り刻んでく もう、そのまま切り裂いてくれ、って そう思ってしまったからきっと自分は相当焦って、参ってる のか 頬の傷が長次のものより多くなったかもしれない お前、見たら、笑うかなぁ

何となく今日、実は、感じていたのかもしれない、ね。あの躰のだるさも、重さも。あの子もそうだったのだろうか。前に、訊いたことがある。想いが深いと意識が重なるって。だから、もしかして僕に伝えたかったのだろうか。そんな、そんな状態になってしまったことを、


「名前が、潜入実技試験中に、負傷した」


ガサリ。鬱蒼とした木々の終わり。急ではなくゆっくり脚を止めた。顎を上げて見上げればにぶい赤の空が見えた。あぁ、違う、もう『赫』か。雲がまばらに空にある。黒い雲。赫い空に黒い雲。気味が悪い。眉間に皺が寄る。もう夕刻か、そんなに走っていたのか。ダラリとした躰。猫背がより酷くなったような体勢。不思議と息は切れていない疲れもないあのだるさもない。なんでだろう。嫌な感覚だった。ぶるりと震える。今まであったものが、ない。無い。さっきの言葉を思い出す。“想いが深いと意識が重なる”。左胸に右手をあてた。もしかして君は、いや、まさか、
そこで気付く。ひらけた視界の先、居た。真っ黒い忍服に身を包んで、横たわる、彼女。嗚呼、情けないかな、声が出ない。彼女の名前さえ、呼べやしない、のか。僕は。
彼女の周りには数名、くの一の子たちが寄り添っている。友達だろうみんなは、暗い顔をしているが泣いてはいなかった。感情をあらわにするな。忍の教えだ。女は、つよい。そう思った。


「伊作!!」


背後からガサリという音とともに小平太の声。ゆっくり振り返りながら息を整える彼の発言を待った。何処か冷静になってる自分の頭が心配になる。何が、どうした?ただ何も頭の中には入ってない。白だけだ。白。そういえば彼女は白が似合っていたな。肌の色も白かった。指の腹でゆっくり撫でれば彼女はゆるやかにわらってくれた。そして必ず僕の名前を呼んでくれた。「伊作」嗚呼、ねぇ、ね、え。また、呼んでよ。いつもみたいに。ほら、わらってよ。ねぇ。名前。今やっと君の名前が、呼べたのに「伊作」起きてよねぇお願いだからさ「伊作」ねぇ、なんで寝てるの。僕今此処に居るのに昨日まで君は、そうだよ、「伊作」僕の名前を呼んでよ「伊作」きこえないよ ねぇ「伊作」わ らっ  てよ「伊作」呼ん でよ「伊作」ねぇ ねえね  え、ね、え「伊作」名前、


「いさ、く……?」


彼女の声がして、彼女を見れば乱れた髪の下にある唇から細く呼吸の音がしているのがわかった。瞬間弾かれたように僕は駆け寄って、彼女の傍に膝をついた。上から見下ろしてまた気付いた。下腹部から大量に出血していた。くの一の一人が必死でその部分を力いっぱい押さえている。どす黒い、血。どんどん溢れていた。眩暈がした。


「伊作さん、伊作さん訊いてください。名前は此処以外大した外傷はないんです。だから此処だけなんですでも此処が駄目なんですこの血の色貴方ならわかるでしょうこのまま出血し続ければどうなるかわかるでしょうだから、」


彼女を助けて。必死でそう云われて、必死の眼で訴えられて、僕は云い返したかった。馬鹿僕がそっくりそのままお前に返すよ彼女を助けてよ、嫌だ僕は、嫌だ、彼女を助けて、助けて助けて、僕の目の前で彼女を助けて止めて助けて、助けて助け、て逃げたい。逃げたい。助けて、逃げたい、助け、逃げたい逃げたい助けて逃げた助け逃げ逃げたい、逃げたい逃げた助けて逃げ助けて助けてたすけてたすけて彼女を助けて、逃げたいにげたいにげたい彼女かのじょをにげたいにげ彼女かのじょを助け彼女を逃げたい助けて逃げたい逃げたいにげたい怖い逃げたい逃げたいにげたいにげたい逃げたいよ逃げたいたすけて逃げたい助け逃げたいにげたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げた逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい
逃げたい逃げたい逃げた逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい、助け、て、



「伊作、」



ひゅう、呼吸の音。瞬間、無音になった。何もきこえない。僕の中で木々の葉が擦れる音もぴたりと止んだ。海の凪のようだ。名前と眼が、あっ、た。彼女は泣いていた。泣いていたけどゆっくり微笑んだ。嗚呼なんで、彼女の血が、怖い。怖いよ。幾人の血を見ても怖くなかったのに。怖いよ。


「いさく、大丈夫、?泣いて、るよ、お?」


君が、大丈夫?、なんて、訊かないで。なんで君が、彼女が、僕の心配なんか、なんで。そんなときに彼女は、急に微笑んだ。微笑んだ。ゆっくり、ゆっくり、僕に向かって手を伸ばした。震えてる手を僕に、ああ僕、泣いてるんだっけ。情けない。僕の涙を彼女はあんまり力の入っていない親指で優しく拭って。眼をあたたかく細めた。


「駄目だよ、ぉ。伊作は、わらって、なくちゃ」
「、名前、僕、っ」


彼女の手を握る。情けない嗚咽をもらしながらそれを自らの頬に持って行った。ああもう眼を開けていられない。躰を丸めた。まるで懺悔しているようで。


「僕、名前を、名前を看る為に、来たのに……!」


出来ないよ。怖いんだよ。もしもう助からない、とか、そんなことがわかってしまったら。僕は、


「僕、出来ないよ」
「……いさ、く、」
「出来ない、よぉ!」
「…………」
「、名前」
「ねぇ伊作」


握ってる名前の手に力が入って、僕の指を握り返した。少し驚いてうつ向いていた顔を上げて彼女を見やれば、


「小平太が、伊作を、呼んできて、くれたんでしょ?」


僕の後ろに視線を投げて云った。彼女の手を握ったまま後ろに振り返ると口を一文字にして真面目な顔をした小平太が立っていた。静かに頷いた彼に名前は「ふふ、」とわらってまた「ねぇ伊作」と僕を呼ぶ。また彼女を見て、少し怖かった。彼女の眼が凄くつよかった、から。


「小平太が、伊作を呼んだんだったら……伊作は、大丈夫だよ」
「、え?」
「だって、合戦実技試験の、とき、小平太の、傷の手当て、したの、伊作だったん、でしょ?」
「……そうだよ。僕だけど……名前、もう、喋るのやめ、」
「だったら、大丈夫。」


時折ひゅう、と彼女の喉が鳴る。息をするのも辛い筈なのに名前は口を閉じなかった。そして僕を大丈夫と云った。大丈夫。嗚呼ずるい。そんな顔で云われたら僕はもう断れない。断れない、いや。断る気が、なくなった。僕は口をきゅ、と小平太みたいに一文字にして、そして。


「……うん。大丈夫だよね。君が云うなら、大丈夫」


覚悟を決めた。





メランコリーに包帯を。


(伊作の眼に光が戻ったのを見届けて、あたしは眼を瞑った。)
(大丈夫、君なら出来るよ)





終。
(09.2.4)
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