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▼ 香る彼女

彼女からはいつも、檸檬の香りがしていた。人工的に作られた香水の香りではなさそうだった。鼻に詰まる匂いではなく、鼻を通っていくさわやかな香り。彼女とすれ違うだけで鼻をかすめるその香りは、自分以外の人には気づかないくらいの微かな香りだったのかもしれないが、俺にはその香りは彼女との距離だった。その香りがする、イコール、彼女との距離が近い。少し緊張してしまい、口の中が乾く。そして俺は平然を装うのだ。彼女に対する気持ちをうまく自覚できないまま、何日も、いつだって、俺の態度は変わらなかった。
彼女はこの学校、塩中生徒会の書記だ。放課後、俺を含めた生徒会役員と共に仕事をしている。書記といっても、中学校の生徒会なんて名ばかりの役職も多く、官を超えて書記以外の仕事も引き受けている。嫌な顔せずに、仕事を受けると、期限までには必ずきちりと提出する。決して彼女は几帳面すぎるわけではなかった。糞真面目でもなく、ただ、自分の存在を薄くしようという感じがした。目立つのは嫌いらしい。前に、生徒会に於ける書記という役割の存在感があまりに薄いんじゃないかと軽く疑い、何か全校生徒の前に立ってに話す機会を設けようかと彼女に提案したことがあった。

「え、全校生徒の前で?」
「そう、君、みんなの前でスピーチか何かやってみないか。いつも生徒会長や副会長である私ばかりが喋っているから、どうかい」
「あー……いいよわたしは、遠慮する」

その頃はまだ俺は、今では心に濃厚に漂う自分の彼女に対する気持ちに比べて、薄い気持ちだった。今だったらそんな容易な気持ちで彼女を全校生徒の前に立たせたりしないだろう。彼女は思っていた以上に目立つ。表に出なくたって、十分目立つ。

「なぁ、徳川。お前生徒会のさ、書記の人のメルアド知ってる?よかったら教えてくんない?」
以前、隣のクラスの男子にそう聞かれたことがあった。
「書記って?」すぐに彼女のことだとわかったが、この男子がどこまで彼女のことを知っているのか試したくてわざとぼかして聞き返してみた。
「お前と一緒のクラスのなまえちゃんだよ」
驚いて呼吸がうっ、と止まった。なんでこいつは彼女のことを下の名前で呼ぶほどに馴れ馴れしいんだ。俺でさえ呼んだことないのに。そこで初めて嫉妬を覚えたんだと思う。
「――知りたいなら自分で聞いてみればいいんじゃないか?」
「それができないからお前に聞いてるんじゃないかよー。なまえちゃん、ちょっと話しかけづらいんだよなー、クラス違うし、あまり男子と絡まないし」
「勝手に教える勝手に知るなんて、彼女に失礼だろ?」
「あーはいはい、わかったよ、自分で聞くよ」
少年は溜息をつきながら頭を掻き、踵を返した。
そういうことが一度じゃなくて何度かあったのだ。「メルアド教えてくれよ、徳川、お前生徒会だから知ってるだろ」と、お決まりのパターンだった。嫉妬はつのるばかり、そのあと彼らは彼女にメルアドを無事貰ったのだろうか。実のところ、俺は彼女のメルアドを持っていない。女子からメルアドをもらうなんて難なくできる、とそう思っていたが、やはり実行するのは難しいらしい。メルアドをずっと訊けずにいた。

「あのさ、最近別のクラスの男子にメルアド訊かれたりしたか?」生徒会が始まる前に訊いてみた。
「あー、あったよ。誰かはちょっと思い出せないけど」
「そうか」
誰かは覚えていない、という彼女の言葉を聞いて安心した自分がいた。『そういう』関係にまで及んではないようだ。
「そういえばさー、徳川くん、わたしのメルアド知らないよね?学校でしか連絡取り合えないの不便だからさ、教えといていいかな」
彼女が顔をこちらに向けて言った。彼女の表情は、彼女が何を考えているのか教えてくれないことが多い。
「えっ……――ああ、紙かなんかに書いといてくれ」
彼女の暗褐色の瞳が揺れて、頬が上がる。ありがとう、と俺は口を動かした。
「なまえ」
「ん?」
「――だったか、下の名前」
「そうだよ、急に下の名前で呼ばれてちょっとびっくりしたな。覚えててくれたんだ」
「生徒会だしな。……下の名前で呼ばれるのは嫌いか?」
「ううん、男子から呼び捨ては慣れてないだけ」
「下の名前で呼んでもいいか?」
「いいよ」
「なまえ」
「はい」
「大丈夫か」
「ふふっ、なんだか不器用だなぁ徳川くん。今日はちょっとおかしいぞ、なにかあったの?」
「や、別に……」
こんなにも、すんなり許可が降りるなんて。そんなものなのか?
「はい、書けた」
彼女はメモ帳を一枚手渡してきた。「ありがとう」受け取る手が少し、震えた。


「ただいま」
家に帰ると、手を洗い、ついでに顔まで洗い、部屋に入って制服から着替えた。彼女から貰ったメモを鞄から取り出す。机の上に置き、隣に携帯を置き、深呼吸をする。メモに並べられた、整然とした彼女の字。さすがは書記、字が綺麗だ。携帯のアドレス帳にアドレスを打ち込み、新規登録ボタンを押す。それほど多くない連絡先の中で輝いているように見える。新規メール作成、編集――『登録よろしく。塩中生徒会副会長徳川』と。



送った。勢いに任せて送った。
そのまま机の上に携帯を叩きつけ、ベッドへ勢いよく倒れ込む。掛布団に顔を埋め、火照った顔を冷そうとするが、ひんやりと心地のいいのは最初だけで、あとはぬるくなっていくだけだった。
「何をやっているんだ俺は……」
女子かよ!と女々しい行動をしてしまっている自分にツッコミを入れながらも、布団の奥へ顔を埋めて悶える。遂に送ったぞ。
ピロローン、とメール着信音がくぐもって聞こえる。ん?メール着信音?
顔を上げ、よろめきながら机の上の携帯に飛びつく。手汗がひどい。新着メール、一件。

『メールありがとうね、これからもよろしく(^-^)』

女子のメールにしてはえらく質素だと思ったが、これもこれで彼女らしくていいと思った。メール保護、と。

「今日は実にいい日だな……」

なまえ、と呟いて見ると、唇がむず痒くなり、再び顔が熱くなってきた。




2013/08/15

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