6colors kiseki | ナノ
そうっと、ドアを開けた。日没が過ぎたばかりの空には淡い紫と柔らかい橙が広がって、薄暗い教室にはもう誰も残っていない。走ってきたせいで上がった息を落ち着けようと深い呼吸を繰り返しながら、中に入って後ろ手にゆっくり、ドアを閉めた。ぱちぱちとスイッチを押して全部の明かりをつける。窓際の自分の机を覗き込んで、教科書の間に挟まったまま忘れられていた一冊の雑誌を手に取った。
カバンと雑誌を机に置くと、ふわりとページが浮いた。ぱっと弾かれたように視線を巡らせる。すると、週直の人が閉め忘れたのか、閉めた後に誰かがまた開けたのか、一番後ろの窓が開きっぱなしになっていた。汚れのせいで滑りが悪いのを力任せに押し切って、カチン、と鍵を掛ける。風が止んだ。
触れた窓は空気よりも少しぬるい。薄いガラス越しに、男バスの面々がぞろぞろと中庭を歩いているのが見えた。思わず、窓に両手をついて凝視する。集団の中にクラスメートの、あの目立つはずの髪色は見つけられなかったけれど、もうすっかり暗くなっているから見落としただけかもしれない。ふらりと外から逸れた目が、そのクラスメート、黄瀬くんの姿を別の場所に見つける。机の上に置いたままの雑誌――女性向けのファッション誌――の表紙を飾る、“人気モデル”の黄瀬涼太。
黄瀬くんすっごくかっこいいんだから見てみなよ!と、雑誌を半ば押しつけるように貸してくれた友だちの興奮気味の声を思い出して、ちいさく笑う。私があまり興味を示さなかったからだったとは思うけれど、本当は、私はもうこの雑誌を持っていた。それも、買った理由は表紙が黄瀬くんだったから。
気づけば、机に軽く寄りかかったまま雑誌をめくっていた。指先でつるりとした紙を撫でる。表紙だけでなく数ページにわたる特集まで組まれていて、改めて、黄瀬くんって有名人なんだなあ、と、ため息。ポーズをとって、にっこりと隙のない笑顔を浮かべる黄瀬くんも、同じ教室でいつも眠たそうに授業を受けている黄瀬くんも同じ人のはずなのに、別の人みたいに見える。
ぱらぱらとページをめくる指が、いつもと同じところで止まった。大手の化粧品メーカーの新作のルージュの宣伝。真っ赤な唇の似合う魅惑的なモデルさんが、黄瀬くんの首に腕を回して抱きつきながらこちらに意味ありげな視線を流している。黄瀬くんはモデルさんが唇にまとうのと同じ真っ赤なキスマークを口角に、そして深い紫のキスマークを右の手首につけていた。なまめかしい色。浮かぶ表情は、表紙の澄ました微笑とも、特集ページの笑顔とも違う、妖艶、という言葉がぴたりとあてはまるもので、とても高校一年生がつくりだす表情だなんて思えない。

――ガラッ、

耳が拾ったその物音に、びくんと体が跳ねた。震える手がバサッと音をたてて雑誌を閉じる。

「…名字サン?」

ドアに手をかけたままそう呟いたのは、黄瀬くん、で。抱きしめるように持っていた雑誌を咄嗟に、表紙が下になるように机に伏せた。カバンの影になって向こうからは見えないはず。どくどくと心臓が早鐘のように跳ね、背中にいやな汗がにじむ。

「黄瀬くん、どうしたの?」

努めて普段通りの声で尋ねて、もう帰ったんじゃなかったの?という言葉は飲み込んだ。見ていたことがばれてしまう。黄瀬くんは私にまっすぐぶつけていた視線をふらりと逸らして、「ちょい忘れもんしたんス」と言いながら自分の席に向かうと、さっきの私と同じように机の中を覗き込んだ。
取り出したのはちょっと意外なことにノートで(失礼だとは思うけど、予習復習をするほど真面目に勉強しているイメージはない)、肩にかけていたスポーツバッグになおざりにしまう。そのまま背を向けて教室を出て行ってくれたらよかったのに、つま先がこちらを向いた。机三列分の距離をあっという間に詰めた黄瀬くんに見下ろされる。目が合うとにっこり、あの笑顔を浮かべて、もっと近く、すぐ隣に立った。怖いくらいの威圧感。

「んで、名字サンってオレのファンだったんスか?」
「え…?」
「だって、これ」
「あ、」

すっと伸びた手が雑誌を裏返した。表紙の黄瀬くんと目が合って、かっと頬が熱くなる。ばれてた。恥ずかしい。どうしよう。ぎゅっと手を握りしめた。今すぐ、全部を投げ出して教室から飛び出してしまいたい。でもカバンを置いていけないし、そのカバンは黄瀬くんの腕の向こうにあるから取れないな、なんて、片隅で考える。

「その、これは、友だちが貸してくれて」
「借りてまで見ようとしてくれたってこと?」
「あ、いや、あの、だって私、」
「…名字サンさあ、普段からオレのこと結構見てるよね」
「えっ」

頬に触れたのはあたたかい手のひらだった。かすめる、石けんの匂い。ピントが合わずに目の前がぼやける。薄茶色の瞳が間近に迫っていて、なにかを考えるよりも早く、前に突き出した両手で黄瀬くんの肩を押し退けていた。思いっきり押したつもりだったのに、大きな体躯はちっとも動じない。逆に私の方がよろめいて、数歩後ずさる。背中が窓にぶつかった。

「あれ、違った?」

違う、と、首を振って否定する。私は、そんなつもりじゃ。それはそれは楽しそうな笑い声が、すっかり暗くなった教室に響いた。声だけじゃない、唇も。ただ、目許だけは笑っていない。這うような視線が無遠慮に向けられる。こらえきれずに、目線をおとした。白いワイシャツの上で黒いネクタイが揺れている。

「オレ、そんなに鈍くないっスよ?」
「!」

ガタ、と、窓が揺れた。寄りかかる長い腕が、すっぽり包むように私を閉じ込める。さらさらの髪が頬をすべって、静かな息遣いが耳朶をかすめた。

「気づかれてないと思ってた?」
「黄瀬、く、」
「うつむいてないで、今目の前にいるオレを見てよ」

頬に触れたあたたかさは、ついさっきと同じものだった。違うのは、黄瀬くんを突き飛ばすどころか、後ずさることさえできないということ。ただ、その両方ができたとしても私にその意思があるかは、別で。は、と、短い息を意識して吐きだす。頬から首へと伝った右の手のひらが、髪に潜って後頭部に添えられた。そろりと、指先が動く感触。顔を上げると、視界の隅で銀色のピアスが鈍く光っていた。



2012.10.04
黄瀬涼太 × purple
written by 卯月