「今日も朝から手合わせ…つもりだったんだが予定変更だ。一応職場体験させねぇといけねぇからな」
夜が明け、少し眠気の残る中どうにか身支度を整えて、事務所の朝礼に集合して間もなく。朝の挨拶もそこそこにいくつかの紙の束を片手に事務所の奥から現れた万治は少し面倒そうに表情を曇らせながらそう言った。
てっきり「昨日の続きだ」といきなり手合わせさせられると思い込んでいた分、少し拍子抜けした。夜遅くまで考えていたことが通用するかどうか試せるチャンスだと、その考えに自分が付いて行けるのかと色々考えを巡らせていて正直朝の挨拶なんてほとんど耳に入っていなかったというのに。
「あー、あれだ。最近"噂"の保須市近辺のパトロール応援要請が一応来てるんでな。それに同行してもらう」
少し緩い空気をまとった事務所内でサイドキックたちが"噂の"と聞いて少しざわつく。もちろん私自身も内心ドキリとした。やはり世間でもあの事件は重要視されている。否、されていなければ困る。この事務所も保須市とそう離れていないし、強制ではないがパトロールの実施要請がヒーロー事務所界隈で回っているようだ。
資料に目を通しながら言い放つ万治が、各区画ごとに大体2人1組で配置・パトロールを行う範囲を指示していく。どうやら私はあの我煙さんと一緒にパトロールするようだ。回ってきた資料で自分の任された範囲の立地を確認する。と、不意に万治さんが目の前にやってきて
「それからお前らは―…買い出しだ」
「……え」
そう言って、一枚のメモ用紙を渡される。驚いて固まる私に、傍に寄ってきた我煙さんが「まぁた俺が荷物持ちネ」なんて呑気な声を上げていた。
―――…
人通りも増え、ヒーロースーツを着ているせいか「お仕事頑張ってくださいね」と時折声を掛けられて思わず本当にヒーローになった気分になってドキドキと胸が高鳴る。
「まったく所長も気まぐれネ〜」
「…というよりこれ多分ですけど買い出しの方がメインでは?」
隣を歩く我煙さんといえば、日常茶飯事なのか「ありがとネ〜」とか軽く返している。彼がヒラヒラと手を振れば顔が良いからか「キャー」とか黄色い声が聞こえてきたり、「カッコいい」とか「綺麗」とか近くをすれ違う女の子たちが囁いているのが聞こえてくるほどだ。
凄いなぁとか思いつつ、片手に持った買い出しリストの書かれたメモを眺めながら返事を返す。日用品から食品までそれなりに項目が多い中、とりあえず手に入れたものに横線を引く。重たいものは我煙さんが持ってくれているし、苦はないのだがパトロールに出ているはずなのに結局店沿いに回らなければいけないから寧ろこちらの買い出しの方がメインになっているとしか思えない状態だった。
「ど?何かヒント見つかった?」
「え?」
「昨日の夜も随分悩んでたみたいだからネ」
不意に問いかけられ思わず間抜けな声が出た。どうやら昨日悩んでいたことがバレていたらしい。ニコリと笑ったままの表情の我煙についこちらも小さく微笑んでしまう。
「頭では理解できてるんですけど、実践で通用するかはわからないです」
「イメージと現実は違うからネ〜」
「……びっくりしたんです」
「ん?」
「万治さん。あの短時間で私の短所をあんなにも」
「嗚呼、人の弱み見つけるのが大好きな悪人だからネ」
悪人って。と苦笑いを零せば我煙さんは本当の事ネと笑顔のまま応える。仮にも自分の所属している事務所の所長である万治のことをまるで恐れず、寧ろ傍から見る限り意見も何もかも正直に言い合っているような関係にも見えるこの我煙という男。少し不思議な人だ。
「よく見てくださってて、すごいなぁって」
「…見てないようで見てるんだよネ。あの人」
でも、実際会ってみて分かったのだ。プロヒーローと自分の埋められぬ差を。サイドキックの人たちとそう上司と部下の関係も感じさせないぐらいの接し方をしている万治の姿を見て、正直私の中のヒーロー像は良い意味で打ち砕かれた。ヒーロー事務所ってもっと、キリキリしてるイメージだったし、我煙を始めこんなにサイドキックの人たちに会って間もないのに普通に接してもらえて嬉しかった。
「事務所の皆さんにも優しくしてもらって」
「いやいや、いつも大所帯で大変なのよこれが。研修生とは言え、色々手伝ってもらって帷ちゃん来てくれて寧ろ助かってるネ」
「いえ。あんな大人数で食事するの久々で楽しくって」
「いつも寂しい?」
「…寂しくないって言ったら嘘になりますね」
独りの食事に始まり、身の回りのこともすべてたった独りで過ごす時間が当たり前になっていた。もちろん、近所の人たちとも交流はあるし学校は滅茶苦茶楽しい。でも、でも不意に思い出すのだ。家に帰ると独りなんだ、ってことを。
「千張(ちはる)さん。もう何年経ったっけ」
一瞬、息が止まるかと思った。まさか我煙の口からその名が飛び出してくるとは思ってもみなかったからだ。しかし、足を止めることなくその言葉にそっと目を伏せ応える。
「もう5年経ちます」
「5年か〜。月日は早いネ〜」
「そうですね」
真壁千張。私の、"母"の名だ。もうこの世界のどこを探しても居ない、久々に他人の口から聞いた私の母の名だった。
そう、母が居なくなって気づけば5年経っていた。あの忘れられない事件から5年。脳裏に焼き付いたあの記憶から5年も経っていたのだ。世間からの記憶からはかなり薄れてきてしまっているのだろうが私にとっては、一生忘れられないとてつもない出来事。
「我煙さんは母と会ったことが?」
「あれ?言ってないっけ?俺、あの人の後輩よ?」
「え!」
「この事務所紹介してくれたのも千張さんだったし」
「そうなんですか!」
初めて聞いた。母の後輩だなんて。寧ろ、母と関わりがある人と会うなんてなかったかもしれない。お葬式も親族だけで静かにしてしまったし。母の知り合いも、友人関係も、職場も何もかも知らないまま今までを過ごしてきた。
ただ、唯一知っていた母の事。そう、私の母はヒーローだった。私を生んですぐ引退したと言っていた。そしてその母がヒーロー時代に所属していた事務所…それがこのクロガネ事務所だった。
「母が言ってました」
「ん?」
「クロガネ事務所には素晴らしいヒーローたちが居る、って」
「…へぇ。その中に俺も居るのかネ」
「居ると思いますよ。きっと」
母のヒーロー時代に、この我煙さんは母と知り合ったのだろう。そうだ。私がこの事務所を選んだのは母のことを知りたかったからだ。認めよう。研修なんて正直二の次だったのだ。改めて母の話を聞いてそう思う。酷い生徒だ。でも「君のお母さんは明るくって優しい人だったよ」なんてほほ笑んでもらえただけで、もう何だか満足だった。
きっと此処に来る前の自分はもっと色んなことを聞きたかったはずなのに、どうしてだかそれ以上踏み込むことはしなかった。もう、十分だった。母がどんな事務所でどうやって過ごしてきたのか、たった1日しか経っていないけれど分かった気がしたから。
「まぁ、今の旦那は口が悪くて態度も悪いただの質の悪いオッサンになってるけどネ」
「そんなことないですよ」
「いやいや、酒飲んだらそりゃもう凄いんだか―…」
笑みを浮かべながら並んで歩いていたその時、不意に我煙さんの声が止まり動きが止まる。彼が両手に持っていた買い出しの品物が入った袋がドサリと落ちる音がしてそこでようやく並んで歩いていた彼の姿が追い付いてこないなと思って振り返る。
「どうしたんです、」
か。その最後の言葉が吐き出されるよりも先に我煙さんの手が私の腕を思いきり引っぱった。息が詰まる勢いで引かれ体制が崩れる。手に持っていたリストの紙を思わず手放しヒラヒラと紙が舞った―刹那、
ドゴオオオオオ!!!!
目の前に走る衝撃。今まさに自分が立っていたその場所に自動販売機が変わり果てた姿でビルに突っ込んでいて、カランカランと壊れた取り出し口から幾つか飲料が転がっていく。
「…え」
「まったく白昼堂々と…どちら様ネ?」
あのまま歩いて進んでいたら明らかに直撃していたであろう。そして無事では済まなかったであろう事実に声が漏れる。自分を引き寄せてくれた我煙さんが自動販売機の飛んできた方へと視線を向ける。その視線を追ってゆっくりと自分の視線もそちらに向けた瞬間、また息が止まりそうになる。
「……嘘…なん、で…」
何故此処に?いや、まさか。その考えが脳裏をめぐる。そこに立っていたのはあの雄英襲撃時に現れた"脳無"に似た存在だった。実際、言葉を発することなく、近くのものを手あたり次第あちこちに投げたり破壊したりしている。お陰であちこちで爆発や事故が起こり異変を察知した一般人たちが一斉に逃げ惑う。一瞬にして街中は騒然となっていた。
「おやおや、知り合い?」
「え、あ、いえ!知り合いではないんですけど以前コイツと似た敵が―…」
「ほぅ?要はお前、敵ってわけネ」
買い出しの袋を投げ出したまま、我煙さんは静かに私から手を離すとゆっくりと歩き出す。先ほどから表情の笑みは変わっていないハズなのに、不思議と違うように感じた。纏っている空気が変わった、といえばいいのだろうか。
カチッカチッと何かがぶつかる音がして、次の瞬間には我煙さんは煙を纏っていた。確か我煙さんの個性は火から起こる煙を操ること。この短時間のうちに手元で火を起こし、煙を発生させたのだろう。あたりで起きた爆発の煙も微かに彼の元に集まってきているように思えた。
「帷ちゃんは市民の安全確保と避難誘導を」
「で、でも…」
「大丈夫。すぐ増援が来るネ。帷ちゃんは今、自分のやるべき事をするネ」
「―っ!はい!!!」
騒ぎを聞きつけたのであろう他の事務所のヒーローたちが集まり始めるのを横目に、確かにその量を増し始めた煙の煙たさに少し涙目になりながらも我煙さんの指示に従う。オールマイトでも手を焼いたあの個体と同じであるならば、きっと脅威だ。しかしその敵の強さを知っているからこそ自分には敵わないと理解できる、此処はプロヒーローたちに判断を任せよう。1人や2人で相手をしているわけじゃない。数人がかりであれば何とか…いや、今は一般市民の安全確保。とにかくこの場から避難を。
とにかく声を張り上げながらその場を離れる。走りながら逃げ惑う人たちを大通りに逃がすように声を掛け続けた。怪我人には手を貸し、ちらほらパトロールしていた警察やヒーローたちも手伝って非難誘導を進めていけば大方一般市民の姿は見えなくなった。依然として脳無らしき敵と交戦しているであろう方角からは爆発音やら激しい音は消えていないが。
不安を拭えないまま他のヒーローたちに習って辺りの安全確認を行っていると、不意にスマホが通知を知らせる音を発した。こんな時に誰からだろうと思いつつ画面を見れば見慣れた名前からの…出久からの一斉送信だった。
『江向通り4−2−10』
たったそれだけ。何かの打ち間違えか?いや、そんなわけがない。出久がこれだけの文章を意味もなく、況してや間違いで一括送信なんてありえない。一瞬意味を考える。間違いなくこれは場所だ。場所を示している。試しに調べてみると案外近いようだが、大通りでも何かの建物でもない。路地だ。細い、ただの、路…地…。ふとそこまで考えて脳裏に嫌な単語が並び始める。
「(保須市……脳無のような敵…………ヒーロー、殺し…)」
待って、待って待って待って待って待って待って…。これは、もしかして。いや、そうだ。そうなんだ。きっと出久はそれを知らせてる。出久は常に最善の方法を考えている。これは、その結果だ。出久が今できることを私たちに伝えている。
嫌な汗が噴き出してくると同時に、嫌な単語が1つに繋がっていく。気づけば少し離れてはいるがあちこちで爆発や悲鳴が聞こえる。もしかしたら脳無に似た敵は1体だけではないのかもしれない…。これは嫌な方向に向かっているとしか思えないし不安で心配でどうしようもならないけれど、その中で出久は必死に伝えている。この事実を、私たちに。
「行かなきゃ…」
スマホを握りしめたまま呟いた。そうだ、行かなければ。ここからそう遠くない。走っていけば時間もそう掛からないであろうその場所に出久が―…アイツが居る。そしてきっと、"ピンチ"だ。
「あれ?帷ちゃんじゃん?」
「どったの?こんなとこで。我煙は?てか何の騒ぎよ?」
「あ、」
ふと声を掛けられて視線を上げると、そこにいたのはクロガネ事務所のサイドキックたちだった。騒ぎを聞きつけて駆けつけてくれたらしい。慌てて駆け寄り事情を手短に話す。
「が、我煙さんはあっちで敵と応戦してます!」
「敵?!こんな白昼堂々の市街地でか?!アホか!!」
「我煙さんの応援をお願いします!私、少し離れますので!!」
「え、ちょ、帷ちゃん?!え?!何処いくの?!」
とりあえずザックリと話すや否や慌てているサイドキックさんたちの声を背に一気に駆け出した。脳裏ではすみませんと謝りながらも、徐々に集結しつつあるヒーローたちや警察のお陰で此処一帯は任せられると判断したから。
だから私は私の出来ることをするためにとにかく走り出した。スマホの位置情報を頼りに、慣れない道を走った。もう少し、あともう少しだからと必死に脳裏で届くはずない声で出久に呼びかけ続けると同時に自分を言い聞かせる。焦る気持ちについて行かない体が忌々しい。あとちょっと、あとちょっとで―…
「眞壁!」
「あ、」
聞き覚えのある声に呼ばれて思わず立ち止まる。どうして此処に?とか色々疑問は浮かんできたけれど、その顔を見た瞬間に何だかものすごく安堵していて何もかも吹っ飛んでいた。