※独歩視点




彼と会ったのは先生の病院の廊下だった。

先生の病院とウチの会社で進めていた医療系機材についての資料を腕に抱えながら廊下を歩いていた時だった。この話がまとまるかどうか、先生に迷惑ばかりかけて申し訳ないな…とか、あのハゲ課長が…とか、いつものようにグルグルと悪循環を繰り返す脳内で悪態を吐く。徐々に心地よい空調の温度に眠気と戦いながら廊下を進んでいたその時、つま先が何かに躓くような感覚。いや、そこには何もなかった。実際はただ単に俺の足がもつれただけだった。
バサリ、綺麗に廊下の床に広がる資料の紙たち。どうにか自分は態勢を持ち直して床に膝を着くことは避けることが出来たが、抱えていた資料たちは躓いた拍子に犠牲になった。呆然と立ち尽くすこと数秒。誰も居ない廊下で静かに吐息する。何やってんだ俺。何もないトコで躓くとか恥ずかし過ぎだろ…。一二三が見てたら大爆笑されてるところだ。自分の失態に呆れながらも資料をそのままにしておくわけにもいかない。兎に角拾い集めようと数枚の紙を手に取った時だった。

視界の隅に飛び込んできた白くて細い指。

え、と声を上げるより前に次々と床に広がっている資料をその手が拾い集めていく。ぶかぶかな服の袖の隙間から覗くその手を追って視線を上げれば1人の少年がそこに居た。今時の太縁眼鏡の奥から伏せ目がちに資料を拾うその姿に一瞬、時が止まった気がした。


「ほい」


"は" と "ほ"の間ぐらいの発音の声でスッと差し出された資料の束。ニコリと笑ったその幼さの残った顔に長めの前髪がかかる。


「…あ、ありがとうございます」


呆けている場合ではない。どこか遠くに出かけていた意識を呼び戻し、差し出された資料を慌てて受け取る。いつの間にか床に広がっていた資料も彼と自分の集めたものを合わせれば元通りだ。順番はどうであれ、あっという間に手元に戻ってきた資料に安心するよりも、彼の長い前髪の隙間から覗く翡翠色の瞳がとても綺麗だと思った。ふっと小さく吐息しながら再びほほ笑んだ彼は先生の患者さんだろうか。それとも誰かのお見舞いだろうか。
すみません、すみませんと何度も頭を下げると彼は良いんですよと遠慮がちに小さく両手を振った。大したことしてないですから、といって踵を返し歩き出そうとした彼が悪戯気な笑みを浮かべながら少しだけこちらを振り返って口を開く。


「足元、気を付けてくださいね。"観音坂さん"」

「あ、は、はい…気を付けます」


コツコツコツ…と遠のいていく彼の足音と、その背中が廊下の角に消えたのを見送ってハッとする。今、名前…。思い出して心臓が飛び上がる。彼とどこかで会ったことがあっただろうか?いや、あんな綺麗な少年に一度でも会っていれば忘れる訳がない。え、ということは彼が俺の事を知ってるのか?いやいやいや、こんなしがないサラリーマンを知ってるなんて、そんな馬鹿な…。と、不意に手に持ったままの資料に視線を落とした時に視界の端で揺れるそれが目に入って俺は落胆する。首から顔と名前付きの社員証をぶら下げていたことを忘れていた。



* * *



自宅近くの駅名のアナウンスが聞こえた気がして、揺られる電車の中でボーっと呆けていた意識が現実という地に戻ってくる。向かいの誰も座っていない座席の窓ガラスに映っている自分の疲れ切った顔を見てまた落胆した。
駅に着き、自宅へ向かって歩き出す。時は既に深夜。今日もまた残業残業残業。酷い会社だ全く。そんな会社に就職してしまった俺には運がないのか、それでも辞めずに此処まで乗り切ってしまっている自分のせいなのか。本当、ここのところ酷い。疲れがピークに達しているのが自分でもわかるほどに。
というのも、ここ最近気付くと彼の事を考えているのだ。そういえばこんな事あったなぁとか、傍から見たら他愛のない本当些細な会話とか。はにかむように笑う顔とか、一二三とゲームしてる時の真剣な顔とか料理してる時の横顔とか…いや、此処までにしよう。キリがない。
明日は久々の休みだ。ゆっくり体を休めるに限る。重い足取りで辿り着いた自宅の玄関。鍵は掛かったまま。そりゃそうだ、一二三は仕事に出かけてる。電気も点いてなければ人の気配もない。いつも通りの筈なのに俺は酷く落胆している。今日は彼が夕飯を作ってくれているのではないか、と彼が風呂の準備をしてくれているのではないか、と心のどこかで期待してる自分が居て嫌になりそうだ。確かに彼の飯は美味しいし、気が利くし……っていつから年下に頼るようになったんだ俺は。

いや、俺がこんなにも彼の事を思い出しているのには、ここ最近俺たちの顔を見せていない彼のせいもある。前回現れてからそれなりに日にちも経っているし、一二三もしばらく見ていないと言っていた。「何度かLINE入れてみたけど返事ねぇんだよなぁ〜」と、少し残念そうに彼からの通知が来ないケータイを見つめている一二三の声を遠くに聞きながら先日は眠りについた。普段から何をしているのかも居場所も知らない相手だ。少し心配になるのは当たり前だろう。

今、一体どこで何をしているのか。俺が言うのもなんだけど、ちゃんと食べているのだろうか。ちゃんと眠れているのだろうか。変な事件に巻き込まれていないだろうか。怪我していないか。風邪などひいていないだろうか。そもそも、生きているのだろうか。何か、何か少しでも彼の生存確認できるものが―……嗚呼、だめだ。眠い。


靴を脱いだ感覚を最後に俺の意識はフッと電源の切れた機械のように暗転した。





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