目覚めてからしばらく。私は先生の病院で療養を続けていた。ようやく普通の食事も摂れるようになり体調も無事安定してきた。あの施設で起きた出来事は先生が診察しながら事細かに教えてくれた。中王区の介入、勘解由小路無花果の登場、過去に起きた事件の解明、玖藕女の逃走…。


「ん。今日も異常はないようですね」

「それは良かった」

「油断は禁物ですよ。ただでさえ体を酷使した挙句、あの現象…何らかの影響を受けてる可能性はまだありますからね」


中でも衝撃的だった私が意識を失う理由となったマイクなしでスピーカーを展開したという現象は生憎記憶にないし、信じられなかった。何かの誤作動か何かに共鳴したのではないかと先生は考えているようだが、不明な点が多すぎるのであくまで推測だけど。なんて珍しく先生が苦笑していたのが自棄に印象的だった。


「ですが、そろそろ退院も視野に入れましょう」


退院。そりゃあ病院は病人や怪我人…治療が必要な人が来る場所だ。元気になった人間がいる場所じゃない。でも、不意にその言葉を聞いて不安を覚えたのは、私はどこに行くのだろうという疑問が頭を過ぎったからだ。このまま先生に甘えきっている訳にはいかない、なんてそんなの分かっているのに。
私の診察カルテに何かを書き込んで微笑む先生に、何も聞けない。と、付き添いの看護婦さんがカーテンの向こうから「先生、次お願いします」と時間を知らせる。爽やかに返事を返し、静かに立ち上がる先生の長くて綺麗な髪が揺れる。何も言えない。不安をぶつけられない。思わず俯く私に何を思ったのか立ち上がった先生が「ふふ」と小さく笑った。


「診察、終わりましたよ」


意味が解らなかった。そんなの分かっている。頭に?を浮かべながらベッドから先生を見上げれば先生の視線が別の方向を向いている事に気づく。ベッドと病室を仕切るカーテンの向こうに向けられた視線の先から「はい、失礼します」と消えそうな声が聞こえた。
換気の為に空けた窓から微かに入り込んできた風がカーテンと先生の髪を揺らす。揺れたカーテンから顔を覗かせたのは他でもない、彼だ。

キョトンとする私に先生は微笑んだまま「ゆっくりしていってね」とだけ言って、頭を下げる彼に軽く手を振って看護婦さんと共に病室を去っていく。先生の背中を見送った彼は静かにこっちを振り返りながらネクタイを緩める。


「座ってもいいか?」


控えめに、でも既にベッドの傍まで歩み寄っていた彼を拒否する理由もない。どうぞ、と小さく頷く。そんな私に優しく微笑みながら彼はスーツのジャケットを片手に抱えたままベッドの脇に置かれた簡易的な椅子に腰かけた。


「お仕事ですか?」

「嗚呼。ちょうど営業で近くに来てて、少し時間が、出来たから…迷惑だったか?」

「いえ、全然」


唐突に不安になって問いかけてくる彼に、少し驚いただけですと笑えば安堵したように胸を撫で下ろした。それが余計に面白くて笑みが零れてしまう。
変な、感覚。お互いがまだ出会って間もない人同士みたい。話し慣れていないような、そんな感じだ。この前だって美味しいお菓子を持ってお見舞いに来てくれた一二三さんもかっちりスーツを着込んでいたのを見て痛感したばかりだ。変声機を通していない地声に、過去の真相が暴かれた今、私はもう御厨 コウスケではないのだ、と。ただの、1人の女、御厨 XXXに戻ってしまったのだと。


「体調は?」

「お陰さまで。もうすぐ退院できるそうです」

「それは良かった」


他愛ない会話。なのに指先が震える。先生に告げられた不安が拭えない。切り替えられない。当たり前だ。だって、この話に一番に切り込んでくるのは間違いなく、


「これから、どうするつもりなんだ」


この男、"観音坂 独歩"なのだから。心のどこかで分かっていた。震える指先を隠すように掛布団の上に置かれた自身の両手を合わせるようにしてギュッと握る。少しトーンを落として聞いてくる彼はその問いかけている内容に対して比較的穏やかな表情だった。


「…分かりません」


嘘は吐けなかった。いつもなら適当にまたバイトでもしながらどっか安いトコで…なんて逃げようと思えば幾らでも逃げ道はあったのに、今の私には逃げ道どころか何の道もない。


「今まで弟として生きてきたけど、それももうお終い。弟のフリして色んな世界を見てきたけど結局"私"には残っていない。もう何もないんです。これから何かをしようという気力も正直なくて」


私と違って交友的で、ゲームが大好きで、どんな時間だろうが色んな所に出かけたりするコウスケとして生きてきた。それはあくまでコウスケだったらどうするだろうって思いながら生きてきただけで。私としてしてきたことは見つからなくて。元々ヒプノシスマイクを使いこなしていたのはあの子だったし、私はそれを真似ていただけ。彼の面影をただなぞっていただけなのだ。


「このまま消えた方がいっそ楽なんじゃないかって」


色んな人に迷惑をかけた。一つの目的の為に、自己満足の為だけに周りの人を傷つけて…実際、目の前に居る彼も私を庇って負傷した。かすり傷だ、なんてあの後ごまかして居たけど実際傷がふさがるまでかなり時間がかかっただろうし、周りには言っていないけど痛みだってまだ残っているかもしれない。
一二三さんだって、絶対に傷ついたはずなのだ。上手く偽っていたとはいえ、私は女なのだ。一二三さんの苦手とする存在。それを知って、どれだけの衝撃を受けたのか計り知れない。きっと2人ともとても優しい人だから、何も言わずにいてくれているだけなのだ。そう思ったらもう、申し訳ない気持ちしかなくて、いくら謝っても謝り切れなくて。誰からだろうとどんな罰も受ける覚悟で居るのに、誰も私を責めなくて、それすら申し訳なくて。だったら、って。


「何も残ってないわけないだろ」


少しだけ雑な言い方だった。吐き捨てたような、否定の言葉。これからの不安な気持ちと申し訳ない気持ちと、息苦しい気持ちが混ざり合って私の体をこれでもかってぐらい押しつぶそうとしているのにそれを一瞬にして振り払ってしまうぐらいの、言い方。


「俺、お前が一二三と交代で料理用意してくれることが嬉しくて。今日は居るかなって、会えるかなーって仕事で疲れ切っていても心のどっかで楽しみにしてる自分が居てさ」


驚いて俯きかけていた顔を上げた私を優しく見つめながら、ぽつりぽつりと呟く。私と出会ってからの事を一つ一つ丁寧に思い出してくれている。そう、私がコウスケとして生きていた中で唯一あの子と違ってしまったこと。それが料理だった。コウスケは料理が出来なかった。というのも、いつも私が用意していたか外食で済ませていたので料理をしなかったのだ。あの子の為にと色々調べたりして磨いてきた料理が、いつの間にか楽しくなって。誰かに食べてもらうのが、誰かと一緒に食べるのが嬉しくて。私が、コウスケでは無くなった瞬間だ。そんな、今になって、気づくなんて。


「でも俺、お前のこと何も知らなくて、一二三に鍵だけ残して居なくなったって聞いたときはどうしたら良いか分からなくなって、でも探したくて、居なくなって欲しくなくて」


そう、私を見つけてくれた。帳兄弟に殺されそうになったところに駆けつけてくれて。助けてくれた。そんな優しいこの人の記憶を消して逃げ出した酷い女だというのに、追ってきた。思い出してくれた。嘘を吐き続けて生きてきた私を罵るでも、責めるでもなくただただ私を助けようとしてくれた。味方であろうとしてくれた。何度も、何度も。


「私なんて、貴方が思うほど良い人間じゃないですよ」

「いや、お前は俺よりも全然良いヤツだよ」

「皆に酷いこともいっぱいしてきたのに」

「そういう気持ちがあるなら、謝ればいい」

「今更どんな顔して謝ればいいのかわかりません」

「なら俺が一緒に謝ってやる」

「え、」

「自分で言うのもあれだが、俺は謝罪のプロだぞ」


"謝罪のプロ"なんてパワーワード、現役サラリーマンの貴方にしか使えない。どこにでもついて行ってやるなんて。一緒に頭下げてやるなんて。しかも真面目な顔をして言うものだから余計に可笑しくて、思わず小さく噴き出して笑ってしまった。それにつられて彼もふわりと笑った。


「もう、弟くんにならなくていい。お前のまま…XXXのままでいい。好きに生きてくれ」

「私のまま…好きに生きる…」


本当の名前を呼ばれて、記憶の片隅でコウスケが笑った。「姉ちゃん」って笑った。そうだ、私はコウスケの姉だ。あの子自身じゃない。あの子の姉でなければ、御厨 XXXでなければダメなのだ。じゃなきゃ、あの子は姉ちゃんなんて呼んでくれない。笑いかけてくれない。もう全部終わったのだから。もう、演じるのは終わったのだから。私はあの子の、世界でたった一人の姉なのだ。家族なのだ。どうして、そんな単純なことに気づかなかったのか。忘れてしまっていたのか。


「消えたいなんて、何も残ってないなんて言わないでくれ。頼む」


生きてくれと懇願するように、静かに、でもはっきりと彼はそう言ってベッドの上に置かれた私の両手をその大きな手で包み込むようにそっと握りしめながら真っすぐ私を見つめていた。


「あ、」


ポタリ、ポタリと目から溢れ出るそれが微かに頬を伝って落ちた。喉の奥から飛び出した声は言葉じゃない。ただの音として空間に消えていく。自分の内側に蔓延っていた何かが音を立てて崩れ、消えていく。心がとても軽い。すごく満たされていく感覚。
昏睡状態の中で見た、一人取り残された空間に突然現れて当たり前のように手作りオムライスを幸せそうに食べてくれた彼の顔と、涙が止まらない私を見つめる彼の優しい顔が重なる。


「貴方に出会えて、よかった」


薄く開いた窓のカーテンの隙間から差し込む午後。ふわりと外から流れ込んできた風がカーテンと自分の髪を軽く弄ぶ。弱弱しくも心の内側から吐き出された言葉に乗った本当の気持ちに、自然と口が弧を描いた。


Story End...?






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