いつもの時間。いつものキッチン。今日はあの子の大好物。バイトから帰ってきたばかりのあの子にお腹いっぱい食べさせなきゃと手際よく料理を作る。背後の小さなリビングのテーブルに着いた彼はニコリと笑って私を見守っている。いつもの光景、いつもの幸せな時間。
今日あった出来事とか、どこに行ったとか何を買ったとか食べたとか彼の面白い話のネタは尽きない。時折世間のニュースについて語り合ったり、お互いの仕事の状況とかそれはまぁ色々と話してきた。そうしてあまり外に出ない私は彼の世界を知る。広い広い外の事を、カルチャーを。そう、これが私たち姉弟にとっていつもの事であり、日常だ。なのに、今日は何故だかどこか違うような気がして。


「…なぁ、姉ちゃん」

「んー?」

「もうさ、」

「もうすぐ出来るから待って」

「姉ちゃん」

「あとちょっとだから」

「もう…良いから」


徐に楽しさを含んだトーンから落ち着いたトーンへと声色が変わる。急かしているのか、と勝手に思いこみながらトントンとフライパンを動かす。綺麗なオレンジ色に染まったご飯に上手く乗った黄色はとても綺麗で。いつもの彼の喜ぶ顔が目に浮かぶ。なのに、良いからとはどういう意味なのか。そんなことを思いながら皿に付け合わせの緑を添え、特製ケチャップをかければほら、もう完成だ。


「あんがと」


徐にそう一言、消えそうな声で呟かれる。え?と声を零しながら料理の乗った皿を持ったまま振り返る。と、そこには誰も居ない。さっきまで感じていたあの子の気配も、何も、ない。ただテーブルがそこにあるだけ。誰も、座っていない。


「コウスケ?」


思わず名前を呼んで、ようやく気付く。思い出す。ああ、そうか。もう、あの子は此処には居ないのだ。コトリ、と誰も居ない寂しいテーブルの上に出来たての料理を静かに置く。何をしているのだろう、私は。いつもあの子が座っていた席と向かい合わせに置かれた椅子にゆっくりと腰掛ける。私の定位置。一人きりの食卓。そのままテーブルに雪崩れ込むようにして突っ伏す。突然襲ってくる虚無感に思わず吐息し、出来立ての料理を勢いよく食べてくれる彼の幻想を見る。しかし現実ではその料理を食べてくれる彼は―…もう此処には居ない。居ないのだ。

全てが終わったことを、終わってしまったことを思い出す。結局自分一人で何もできなかった。すべてを終わらせた後に残るのは嫌でも突き付けられる現実だけ。そんなの分かっていた。分かっていた、はずなのに。
カチカチカチ…と壁掛け時計が空しく時間が過ぎていくのを知らせている。なのに、時間がとてつもなく長く感じて仕方がない。息をするのも、酷く、億劫だ。


なんて何もかもを投げ出そうとしている思考回路の中、徐にスススス…と椅子を動かす音がした。私ではない。よいしょ、なんて小さく声を漏らしながら私と向かい合う席に着いたそれに対し、空虚に満ちていた空間に何かが飛び込んできたような感覚を覚える。


「いただきます」


とても落ち着きのあるその声には確かに聞き覚えがあって、何だかとても安心した。カチャカチャと微かに食器同士が当たる音がする。


「やっぱり美味いな」


そう小さく笑みを含んだような嬉しそうな声が聞こえて何だかドクリと心臓が高鳴る。知っている。この声を、この人を。私はこの人を知っている。呼吸がすうっと楽になる。心臓がしっかりと脈打っているのが分かる。時計の針が一つ、時を進める。ゆっくりとテーブルに伏していた顔を持ち上げて、彼を見た―…。



―――…



白い天井。ぼんやりと飛び込んでくる視界は一色。視界の隅にカーテンレールが見えた。ゆっくりと何度か瞬きを繰り返し、意識を呼び起こす。微かに差し込む日の光。柔らかい感触。鼻先を掠める独特の匂い。どうやら此処は病院のベッドらしい。
大きくゆっくりと息を吸い込む。少しだけ息苦しい気もするが、どうやら生きているらしい。徐々に覚醒する意識と感覚の中で、一つだけ違和感があった。投げ出したままの自分の右手に乗せられた重み。布団とは明らかに違う。ようやくクリアになってきた視界を動かして違和感のある方へと向ければ、私のベッドに上体を伏すようにして眠っている綺麗な赤い色が飛び込んできた。

少し骨ばった、それでいて男の人らしいしっかりした大きな手が投げ出したままの私の手を握りしめている。いや、包み込んでいるといっても良いほどの差か。右手に乗る重みとその握られている手から伝わる体温がお互いが生きていることを証明してくれているような気がして、無意識にその手を握り返してみる。起きたばかりで上手く力が入らないけど、微力ながらに握り返せば「ん」と彼が声を零してモゾモゾ動き出した。


「ふぁ…あ…いけない…寝てたな…」


ふわりと揺れる赤い前髪の奥で綺麗な瞳が何度か瞬きを繰り返し開かれる。ゆっくりと上体を起こしながら欠伸を零す彼の姿に何故だか酷く安堵してしまって。


「お、はよござ、ます…」


酷く掠れた声だった。思った以上に口が乾いていたらしい。音として聞き取れるかわからないぐらいのその声に彼の動きがピタリと止まる。どうやら聞こえたらしい。ギギギギと油の切れた機械みたいにぎこちない動きで彼の首がこちらに向く。途端に驚いたように見開かれた綺麗な瞳と視線が合ったので小さく微笑み返せば、何故だか彼は「あ、あ、」と言葉を詰まらせる。


「独歩ー!飯持ってきたー…って!!!おぅわッ?!!!」


言葉にならない声を零しながら私の手をギュッと握りしめる彼を見つめていれば、病室のドアがノック無しで開かれる音が聞こえた。かと思えばそのままベッドと部屋を仕切っていたカーテンがヒラリと揺れ、ひょっこりと顔を覗かせた黄色…。だったが、こちらを見た瞬間勢いよく後ろに飛び退いた。一瞬にして姿が見えなくなった。


「ちょっ、あ、おおおお俺、先生呼んでくる!!!」


少し震える声がカーテン越しに聞こえた。あ、と察するより前に「わあああ!」というような叫びに近い声を上げながら再び病室のドアが開いた音と間を開けずにバタバタと病室を飛び出していく音が聞こえた。まるで嵐のような…一瞬だった。2人してその光景をただ見つめるしかできなくて、再び訪れた静寂に彼の視線が再びこちらに向けられた。


「お…おはよう」


控えめに発せられたその言葉にまた自然と笑みが零れた。すると彼は私の手を改めて握り直し「よかった、よかった…」と呪文のように呟きながらベッドに顔を押し付けるようにして伏す。ふわりと揺れる髪とベッドに埋まってしまって彼の表情は見えない。
どれだけ眠っていたのか分からない。どこか記憶も朧気で、自分がいつから記憶を失っていたのか分からない。何があったのかも、アイツがどうなったのかも正直気になっているけれど…まだ、別に…急がなくても良いかな…なんて。未だに少しだけダルさの残る体を投げ出したまま彼を見つめる。とにかく、今は、


貴方が生きていて良かった


私の中で溢れているのは、ただただ、それだけだった。





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