※過去話/オリジナル設定・解釈あり※


物心ついた時には既に両親は居なかった。いや、戦乱に紛れて居なくなっていたといえばいいか。安否は知らない。知ろうとも思わなかった。戦争孤児として施設に入れられても何とも思わなかった。覚えてないけれどあまり両親にはいい思い出がなかったようで親については何も信じていなかったし、いつか迎えに来てくれるなんて期待もして居なかった。

学生時代もこれと言って友達も居なかったし、ほとんど1人で過ごして来た。それぐらい意識を勉強に向けていたのもあったし、プログラミングなどに没頭し1人で行う作業が好きだった。手先も少し器用だったこともあり、何かを設計・組み立てるのも好きだったのも理由の一つだったのだろうと今になって思う。
それでも良かった。施設を出て、バイトしながら定時制に通ったりもして。結果、コンクールとかちょっとした催し物に参加した時、偶然にも中王区の目に止まったらしく声をかけて貰った上に就職に繋がった事だし。
確かに楽な道なんてなかった。偶然と必然が妙に少しだけ重なり合って生きてこれただけ。それでもきっと私がこの世界でも楽しく居れたのは" あの子 "が居たから。あの子が居たからこそ、私は此処まで生きてこれたのだ。それだけは確か。

2歳下の私の事を慕ってくれた弟。私より心配性で、それでいて誰にでも優しくて、とても強くて逞しい自慢の弟。細かな作業を好む私と違ってあの子は大雑把で、私に出来ないようなことも全部出来て。友達もたくさん居て、職場や部屋に引き籠ってばかりの私に外で見てきたことや感じた事、出来事なんかを全部教えてくれた。
私にとって、彼は世界だった。私の知らない世界を教えてくれる、唯一の。中王区で働き始めて更に外に出る機会が減った私にとって、それはかけがえのない光だった。なのに。なのに。

あの子が無事なら、それだけで良かったのに。

中王区で働き始めてからずっと続けてきたプロジェクト。長い期間、失敗を繰り返しそれがようやく完成した。しかし、この世をより良いものにするために作ったはずだったのに出来たものが" 新しい武器(改正ヒプノシスマイク) "だったという事実に気付いた。焦りと緊張が一気に体中を駆け巡ったのを覚えてる。
そして私が辿り着いた考えは一つ。作り上げてきたデータもプログラムも全部壊して、ここから逃げ出せばいい。今すべてを投げ出して、あの子と2人でどこか遠くに逃げよう。それ以外、考えてなかった。無かったんだ。

それから私は密かにデータを作るフリを続けながら身の回りの整理を始め、微力ながらも施設のデータ達にバグやウイルスを送り続けた。少しでも時間が稼げるように。その間に耳に飛び込んでくるこの実験施設で非人道な実験が行われているという噂を耳にしても、本当はどうでも良かった。他に蔓延る噂も、嘘か本当か知らないが良い噂は何一つ無い。こんな所、来るんじゃなかった。逃げる機会を伺って、周りの目を気にして、疲れ果てテーブルに突っ伏して寝る。そんな生活を続けていた、矢先の事だった。


「そんなところで寝てたら風邪引くよ?」


高めのトーンが降ってきて、不意に意識が呼び起こされる。テーブルに伏して寝ていた私はその聞き覚えの無い声の主の方へと顔を向けた。ぼんやりと未だ微睡んでいる視界の先でその人物はニコリと微笑みながらこちらを見ていた。やはり見覚えは無いし、この部署の人間ではない。そもそも幾つだ?と思うほどに彼の顔は酷く幼い印象を受けた。


「そんなのんびりしてていいの?」

「……いきなり、何を言って…」


見ず知らずの人間に此処までフレンドリーに声をかけてくるのも珍しい。そもそもこの施設に入社してからもこれと言って人間関係は作ってこなかったし、会話もほとんど無いに等しい私にどうして声をかけてくるのか、はたまた何を言っているのか理解も出来なかった。


「君の弟くん、実験台にされてるのに」


は、と思わず乾いた声が漏れる。微睡んでいた意識が一気に覚醒した。今、何と言った?人には言って良いことと悪いことがある。それを知らないのか。視線の先の彼は依然としてニコリと微笑んだまま私の反応を楽しんでいるようだった。


「早く助けに行かないと」

「なんの…冗談ですか…?!」

「えー!冗談じゃないよ!僕はこっそり君に真実を教えに来ただけ」


嘘だ、だってあの子は中王区の壁の外に―…そこまで考えて息を飲む。慌ててポケットに突っ込んだままだったスマホを取り出し、LINEを確認するとあの子からの通知の数が凄いことになっていた。ここ数日間、誰とも連絡も取り合ってなかったことを思い出す。


「Xフロア、第三格納庫奥の扉。行くも行かないも君の勝手だけど」


既読が付かず、返信も無い私への心配と不安の入り混じるあの子の文字の羅列が鼓動を逸らせる。そこに立っている彼は、私の向かうべき場所を伝えてまた微笑んだ。けど先ほどの無邪気な笑みとは違い、酷く怪しげな雰囲気を纏った笑みだった。それでもその時の私は何も思わなかった。LINEのトーク画面を映したままのスマホを投げ出して、勝手に体が動いて気付けば部署を飛び出し、目的地に向かってただひたすらに走り出していた。

エレベーターを乗り継ぎ、通路を駆け抜け…何年ぶりにこんなに必死になっただろうかってぐらい走って、走って、走って。時折すれ違う施設の研究員やスタッフたちに凄い注目を浴びながら兎に角ひた走る。


「…どう、して」


研究員しか持っていない管理キーでその重い鉄の扉を開けた瞬間、飛び込んできた光景にゾッとした。吐き気がした。信じていたそれが、希望が何もかもが足元から崩れていく感覚がした。


「おや、来たのか」


少しとぼけたような声が飛んできた。聞き覚えのある声。いや、いつも聞いている声。その場にいた研究員たちの視線が突如飛び込んできた私に向けられる。


「玖藕女(くぐめ)施設長…」


キョトンとした表情で何やらカルテのようなものを持ったままこちらを見つめるこの女性こそ、中王区第9番開発・実験施設…つまりこの施設長―…"玖藕女 麗久(くぐめ うらく)"施設長その人だ。
少しボサボサの髪を軽く掻き上げながらその何の悪意も感じない垂れ目がこちらを不思議そうにこちらを見ているその奥、幾つものモニターに映し出されているその光景に腹の底から今までに感じた事のないくらいの熱が競り上がってくる。


「何を…何をしているんですか…!!!!」


ズカズカと室内に足を踏み入れ、モニターに映し出されているその光景…自分の弟が別の男とラップバトルをしている光景を凝視しながら思わず声を張り上げた。そして室内に足を踏み入れて気づく、室内の奥がガラス張りになっており、数人の職員らしき人たちが下の様子を伺っている。


「自分の目で確かめればいい」


その言葉に吹っ切れたように一気に駆け出す。ガラスに体を押し付けるようにしてその向こう側を覗き込めばそこには今まさにモニターに映し出されている光景が広がっていた。ボロボロになりながらもマイクを握ったまま相手と対峙する弟と、狂ったように何かを叫ぶ相手の男。恐らく、普通のニンゲンじゃない。何かされているか、何かしていたか…。今はそんなことどうでもいい。


「君たち姉弟は実に優秀だね」

「…何を」


ふふふ…と微笑みながら背後に歩み寄ってきた施設長を睨み上げるように振り返った途端、私は固まった。そこには弟のラップバトルの能力や威力、性能などが事細かに数値にされ小さなモニター画面に映し出されていた。その正確さを表している数値を見ればわかる。私の弟は今相手にしている男をずっと相手していた訳じゃない。此処に来てからずっとあの子は何人ともラップバトルさせられている。そして、


「どうして」

「それはこっちの台詞だよ」


別の職員が持ってきたそれは、私の作り上げたデータなど色んなものが全て詰まった記憶媒体。私が不注意にも作り上げてしまった兵器のデータや、施設のデータベースから吸い上げたいくつかの機密も全て詰まっているそれ。誰にも見つからない所に隠しておいたのに。あとは逃げ出した後にその記憶媒体を復旧出来ないぐらいに全部壊して、消してしまえばと思っていたのに。それで終わらせられるはずだったのに。


「どうして君はこんなことを?」

「………」

「君は学生時代から目をかけていたのに。実に優秀で、何事にも誠実で、こんなにも素晴らしいものを作り上げてくれたのに。何故我々を裏切るような真似を?」

「………らだ」

「ん?何?」

「ッ!!!!裏切ったのはそちらだ!!!」


全て、全て仕組まれていた。反吐が出る。依然として余裕の表情を浮かべている施設長とそいつらに従っている職員の人たちも、全員、全員共犯者だ。


「私が此処で働けば家族は保証されると!弟には手を出さないと!!そして、この研究は人々の役に立つと!!!この施設は人々の希望なんだと!!それが…これは何だ?!!何なんだこれは―!!!!」

「…なんだ、君も吠えるじゃないか」


一気に吐き捨てた私の熱も視線の先に立つ玖藕女 麗久には何一つ刺さらない。何も届かない。光の消えた瞳が弧を描き、独り声を荒げている私を冷ややかに見つめている。


「確かに我々の理念は君たちの夢とは大きく食い違っていたのかもしれない。でも、それを信じてこれ(兵器)を作り上げたのは、君だろう?」


職員の手から取り上げた記憶媒体を愛おしそうに眺めるその顔は将に狂気に満ちている。嗚呼、分かったこの人は元から狂っていたのだと。その狂気を密かに隠して私たちに近づいてきたのだと。自分の理想を実現するために、自分の狂気で空いた穴を満たすために。


「自責の念に駆られてデータを破壊?はは、笑わせる。此処をどこだと思っている。私の城だ。たった一人の小娘の考えも行動も全てお見通しなんだよ、馬鹿者」


逃げ道が、見つからない。全てが筋書き通りだったなんて気づいた所で全て手遅れだ。それでも脳は考えるのをやめない。逃げなきゃ。あの子を助けなきゃ。あの子だけでも逃がさなきゃ。焦りが募る。急に競り上がってきた恐怖に足が動かない。声が出ない。最悪の結末が足音を立てて近づいてくる。


「そろそろ弟くんも限界だろう。良いデータも摂れた事し、お姉ちゃんにも会わせてやらないと」


ジリジリと近づいてくるその大きな存在から少しでも距離を取ろうと本能からか後ずさりする体。しかしそれも長く続かない。トンっと背中が壁にぶつかって息が詰まる。


「姉弟仲良く用済みだ」


ニコリと笑った玖藕女という女の顔が酷く脳裏に焼き付いて離れない。

え、と声も出ないまま背中にあったはずの壁の感覚がなくなって、そのまま突き飛ばされる。小さな空間に押し込まれたのだと理解する間もなくガシャンと閉まる扉。そのままゴオンゴオンという機械音が聞こえたと思えばすぐに収まった。
次は何だと身構えていれば、ゆっくりと開かれる扉。そこは先ほどガラス越しに見ていた場所…実験場、といえばいいのか。視線の先で少しふらつく体をどうにか堪えて立っているその姿を見て、勢いよく立ち上がって駆け出す。


「コウスケ!!!!」

「ねぇ、ちゃん…?」


こちらを振り返ったその大きな体に飛びつくようにして抱きしめる。私の存在に気づいて抱きしめ返してくれるその控えめの大きな掌の感覚に酷く安堵してしまって、指先が震えて力が入らない。溢れる涙が止まらない。


「ゴメン…ゴメンね…姉ちゃんが馬鹿だから、こんな、コウスケが、ゴメンね…」

「姉ちゃんが無事でよかった」


しーっ…と優しく頭を撫でるその手と抱きしめる力を強めてくる存在に、私は兎に角謝ることしか出来ない。こんな筈じゃなかった。この子には何不自由させることなく外の世界で自由に生きて欲しかった。それだけなのに、こんなことに巻き込んでしまった事実に悔しくて苦しくて仕方ない。…それでもきっとこの子は私を笑って許すのだろう。それがまたとても苦しいことも知らずに。


「コウスケ…」

「っ!!姉ちゃん!!!!」


兎に角逃げよう、その言葉を吐き出すよりも前にコウスケの叫びが木霊した。

ダアンと言うような一発の音が酷く空間内を反響する。耳を劈くようなその音と共に視線の先で私の前に飛び込んできたコウスケの身体がゆっくりと崩れ、倒れていく。紅い花弁が微かに宙に散り、私はそれをただ茫然と眺めていた。何が起きたのか分からなかった。


「コウスケ…?」


地面に伏すように倒れ込んだコウスケの体の向こうに見えた一つの影。割れたガラスがシャリシャリと音を立てながら未だ崩れ落ちているその場所でこちらを冷ややかに見下ろしているソイツの手に握られた今は廃止されているハズの銃器。ようやく理解した。


「コウスケ?!!コウスケ!!!」


悲鳴に似た声を上げる。じわじわと広がる紅い水溜りに今までに無いほどの恐怖が襲い掛かってくる。撃ったのだ。あそこから。私たちを見下ろす施設のガラス越しに。ガラスごと撃ち抜いたのだ。アイツは、私の、弟を。
「施設長!」とか「はやくシャッターを!!」とか色々周りの職員たちが騒いでいるのを横目にアイツはニヤリと笑ってこちらを見下ろして何かを手に取った。


「いつまで伸びているつもりだ!手負いの子供ぐらいさっさと片付けたらどうだ?ここから出たいんだろう?」


インカムから空間内に響くヤツの声。一瞬、何のことを言っているのかと思ったがすぐに理解した。同じ空間でコウスケが相手していたらしい地面に伏したままだった男がアイツの言葉を聞くなりビクリと動いたから。割れたガラスの破片を飛び散らしながら、施設とこの場所を繋ぐその間をとても頑丈そうなシャッターが隔てる。アイツの声も何も見えなくなった。


「ね…ちゃ…」

「コウスケ、今、今助けるから、ね?」


今にも消えそうな声だった。片手で溢れる紅を押さえつけている手から力が抜けていく感覚がして、更に強く押さえつける。止まらない。止まらない。ああ、ああ、なんで、なんで、なんで。嫌、否、いや。どうしてこの子が撃たれなければならない。どうして私たちがこんな、めに…。震えが止まらない。止まったはずの涙が再び溢れ出して止まらない。自分にも言い聞かせるように何度も何度も助ける、助けると呟くが視線の先でコウスケが小さく首を振ったのが見えた。


「逃げ、て…」


ふう、っと溶けていくように地面に倒れ込んだ私の弟から力が抜けていく。相変わらず紅い水も私の涙も止まらなくて、脳が何もかも受け入れなくて、何も、信じたくなくて。全部全部全部、悪い夢だって、酷い錯覚だって。


「あ、あああ…あああああ…」


言葉にならない嗚咽が口から零れていく。怒りなのか悲しみなのか苦しみなのか、はたまたその全てなのか。分からない。分からない。分かりたくもない。目の前で動かない私の大好きな可愛い大切な存在が、その光景が、理解できるわけもない。そっと頭を抱きかかえるようにして抱きしめる。


「俺はああ…おまえらを倒して、こんなクソみてぇなああ、施設からぁあ出てやるんだああああ!!!!」


先ほどヤツに発破をかけられた男がフラフラと起き上がりながらこちらに歩み寄ってくる。やはり何か投与されているか弄られている。明らかに可笑しい様子の男のその口ぶりからするに、このバトルに勝てば…私たちを完全に始末すれば此処から出してやるという約束をヤツとしたらしい。嗚呼、そんな訳ないのに。
何も考えられなくなってきて、呆れさえ思えたほどだった。男のマイクが起動する音がして、同時にブザーみたいなものが鳴り響いた。酷く大きなスピーカーが見えて、完全にアイツらが何か手を貸しているのが目に見えて分かった。瞬間、


「―♪――♪♪――!!!!」

「くっ…!!!」


脳が割れそうなほどの酷い痛みと身体に圧し掛かる衝撃。そこらの人間が出せるものじゃない。リリックも、スキルもさほど磨かれていないように思われる汚い言葉の羅列に此処までの威力があるとは思えない。人間も、マイクも、お構いなしか。
コウスケの頭をギュッと抱きかかえながら攻撃を受ける。このまま潰れておしまいか。人生なんて所詮、こんなものか。酷いにも程がある。私たちが一体、何をしたというのか。嗚呼今更そんな事思ったって、嘆いたって何にもならない。終わりだ。何もかも投げ出してしまえ。だって、もう、此処に、この世に、コウスケは――…


「姉ちゃん!!!」


ピシャリ、頭を殴られたような感覚。殴られたのに、その衝撃で目を覚ましたような感じが体中を一瞬駆け抜けた。意識を保て、今、死んでたまるか。意識を飛ばすな。まだ、まだだ。アイツもあのデータもこのまま逃がす訳に行かない。意識を保て。何度も自分に言い聞かせる。不意に視線に飛び込んできたのは傍に落ちていた割れたガラスの破片。未だ続いている攻撃の衝撃に耐えながらそれを手に取って勢いよく左手に突き立てる。


「うぐっ!!!!」


痛みで目が覚める。意識が現実に引き戻される。足元で横たわるその一つの存在の手から零れ落ちていたそれを手に取ってスイッチを入れる。ブオオンと微かに起動音が聞こえた。未だ汚い言葉を投げつけてくるソイツに対し、私はゆっくりと立ち上がる。まさか死にかけていた小娘が立ち上がるなんて思っても見なかったのだろう、驚きに言葉を詰まらせる男に私はマイクを構えた。大きく息を吸う。

思いの丈を全てぶち込んで、全てを破壊してやろうと思った。それに合わせて、私のスピーカーたちがコポコポと次々開いていく。ビリビリと体中を走る痛みは攻撃によるダメージなのか、それとも私の中から沸き起こる怒りと憎しみと悲しみなのか。この際どうでもいい。
全部、壊して、終いだ。この施設も、アイツも、職員たちも、全員。私と私たちと一緒に消えて、消えてなくなってしまえばいい。逃がすものか。ただ、それだけを考えて大きく口を開いた。


「――――――!!!!!!」


―…そこからはよく覚えてない。気づいたら全部燃えて、吹っ飛んで。あちこちで悲鳴とブザーと消火装置が動いている音が聞こえていた。何もかもが遠い感覚で朦朧とする意識の中、何故か私はただひたすらに外を目指していて、酷い土砂降りの中をひたすらに走って、嗚呼、現実から逃げ出したかったんだ。



――――…



入り組んだ薄暗い路地裏を抜けた先、ポツリと聳え立つ1つの建物。大きく掲げられた看板には偽りの企業名。こんな所に隠れていたのか。通りで見つからない訳だ。呆れて乾いた笑みが零れる。酷く、長い道のりだった。遠回りし過ぎた。
一歩、また一歩とゆっくりと足を進めていく。施設の前まで来ると自動的にシャッターが開く。「さぁ入れ」とばかりに開けられたグッドタイミング。チラリと深く被ったフードの奥から視線をシャッターの降りてきた殿上の隅に移せば小型の監視カメラがこちらを見つめていた。一瞬だけカメラと視線を交わし、一息吐くと一度止めた足をまたゆっくりと進める。

微かな薄明かりに照らされた通路を突き進んだ先、少し開けた空間へと抜ける。コツコツ、と自分の歩く音が響く。向かう先はただ一つ。空間の奥に立って笑みを浮かべているヤツのもと。


「おや、来たのか」


あの日と同じ声色で、同じ言葉を吐いたその人―…玖藕女 麗久(くぐめ うらく)本人。間違いない。脳裏に焼き付いたあの狂気な笑みを張り付けたままこちらを見つめるのはこの世界中にコイツしかいない。
嗚呼、ようやく、ようやくこの日が来たか。思った以上に冷静な自分に驚くと同時に、喜んでいる自分と心の何処かで何かを渋っている自分が入り混じってもう訳が分からない。でも、もう良いのだ。どうだっていいんだ。元々どうでも良かったここまでの時間だ。その間に在ったことなんて、何も、何も。


「何があったとしても、俺は、お前の味方でいたい」


…あれ?どうしてあの人の事を思い出しているんだろう。そんなことを頭の片隅で思っていることに気づいて疑問を薙ぎ払う。ジクリと痛む左手の傷を右手の指先でなぞりながら、私は今最後の舞台に立つ。嗚呼、もういいんだ。

此処が、終着点だ。






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